ニルヴァーナ初期のセカンド・ギタリスト、脱退後の半生が明らかに

ニルヴァーナ初期のセカンド・ギタリスト、脱退後の半生が明らかに

ニルヴァーナがサブ・ポップからリリースした89年のデビュー・アルバム『ブリーチ』の制作費606ドルを負担し、セカンド・ギタリストとしてクレジットされていたジェイソン・エヴァーマンのその後の半生が明らかになっている。

ジェイソンの消息を伝えているのは同じシアトル・シーンでバンド活動をしていたジャーナリストのクレイ・カーヴァーで、ジェイソンと再会し、取材した経緯を『ニューヨーク・タイムス』紙に寄稿している。これまで謎の人物として見過されてきたジェイソンだが、クレイによれば、シアトル・シーン勃興期には名うてのミュージシャンとして活躍していて、しかも、父親がアラスカで操業していた漁船で10代の頃から稼いでいた資金を蓄えていることでも知られていた。ただ、難があったとしたら、生い立ちの事情でひどく内向的な性格だったことで、特に人との関わり合いが下手だったことが当時のジェイソンを知る様々な人物らの証言により綴られている。

ジェイソンはニルヴァーナの当時のドラマーだったチャド・チャニングのつてでバンドに紹介され、その後ファースト・アルバムの製作費を負担したという大役を果たしたことでセカンド・ギタリストとして迎えられ、バンドとツアーに出ることになった。当初はジェイソンのパフォーマンスとバンドの演奏はかなりうまくいったというが、しかし、ツアー途上でジェイソンが完全に塞ぎ込んで、ほとんど引き籠りになってしまったことがバンド活動の大きな障害となり、ツアーがニューヨークに及んだ時点でジェイソンへの対応に困窮したカート・コバーン、クリス・ノヴォゼリック、そしてチャドはツアーそのものを中止し、一路シアトルに帰還し、それを口実にジェイソンをクビにしたという。

しかし、ニルヴァーナを追われたジェイソンは、ベースのヒロ・ヤマモトが脱退したサウンドガーデンにぜひ加わってほしいというオファーを受けることになる。当時のサウンドガーデンはニルヴァーナ以上にブレイクしかかっていたバンドで、シアトル・シーンを象徴する存在だったので、ジェイソンの加入は当時シアトルで活動するミュージシャンだったら誰もが羨望するサクセス・ストーリーだった。

ただ、サウンドガーデンのアメリカとヨーロッパのツアーも経験してジェイソンを待ち受けていたのは、またしてもバンドが機能しなくなったという理由での解雇通告だった。その後、ニルヴァーナはチャドからドラムをデイヴ・グロールに交代し、未曽有の成功を手中にし、サウンドガーデンもジェイソンからベン・シェパードへとベースを入れ替え、大ブレイクを果たすことになり、クレイはそんなジェイソンについて、ザ・ビートルズを追われたドラマーのピート・ベストの生き様を二度生きた人物と綴っている。

その後、ジェイソンはニューヨークへと居を移し、キャロライン・レコードの倉庫番として働いた後、マインドファンクの結成に参加し、そこそこの成功を収めてサンフランシスコへと拠点を移すことになった。しかし、それでもわだかまりを抑えることができず、トレーニングに励むなど着々と準備をしつつ、ある日バンドをやめると軍への入隊に応募したという。

入隊してからのジェイソンはアメリカ陸軍でも有数の精鋭部隊であるレンジャー部隊を志願し、その後は精鋭部隊の頂点ともいえる特殊部隊コマンドを目指し、2001年の同時多発テロ事件以降、念願をかなえることになった。ジェイソンはその後、アフガニスタン、イラクと転戦しながら重要作戦に従事することになった。ジェイソンの妹のミミは特殊部隊のかつての同僚たちがジェイソンを英雄視していたことを語っていて、また、実際にクレイが会った特殊部隊の同僚はジェイソンが部隊においても引き籠りがちな人物だったと認めながらも、軍の任務ではその方が都合がいいと語っていたという。

その後、ジェイソンは2006年に除隊し、軍の特典で名門コロンビア大学に入学し、哲学科を卒業している。現在の生活についてはその匿名性が気に入っていると語っており、名教授になれるかどうか、という問いには「俺にはそんな堪え性はないから無理だな。どっかでバーテンでもやるのが関の山だよ」と答えている。
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