ボブ・ディラン『フリーホイーリン』のジャケットのあの女性が他界

ボブ・ディラン『フリーホイーリン』のジャケットのあの女性が他界 - 1963年作 『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』1963年作 『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』

1960年代初期にボブ・ディランと交際し、『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』のジャケット写真ではボブと腕を組んで連れ立って歩いていた女性としても有名なスージー・ロトロが長い闘病の末、2月24日他界したとローリング・ストーン誌が伝えている。67歳だった。

ボブはデビューして間もない1961年に17歳だったスージーと交際を始めたというが、スージーは数多くの楽曲におけるインスピレーションになっていただけでなく、ボブの政治性やプロテスト・ソングへの傾倒のきっかけをもたらしたあまりにも重要な存在でもあった。特に『フリーホイーリン』や『ザ・ウィットマーク・デモ』に収録された“くよくよするなよ”や“明日は遠く”のインスピレーションをもたらしたことで知られている。

2人が出会ったのはボブの楽屋でのことで、一目見たその時からスージーから目を離せなくなったとボブは『ボブ・ディラン自伝』でも回想している。「ぼくがこれまで見たもののなかでこれほどまでに官能的なものはなかった。肌が白くて、金髪で、生粋のイタリア系で、突然、場に南国の空気を彼女はもたらしていた。一緒に話し出しただけで頭のなかがぐるぐる回っていくようだった。女性と話していてキューピッドの矢を耳に射抜かれて急に好きになってしまったことはこれまでもあったけど、この時は見事に心臓も射抜かれて、しかも船の上から海までへともうぼくの心は引きずり込まれていた」とボブは2人の出会いについて振り返っている。

また、出会った当初、政治とはまったく無縁でフォーク・ソングのみのボブに公民権運動について紹介し、人種差別撤廃を叫ぶ政治集会などへ連れ出したのもニューヨークの左翼系の一家のもとに育ったスージーだったという。スージー自身、出会った当初、ボブはウディ・ガスリーやボブ・シーガーなどのフォーク・アーティストのことは知っていたが、自分は反人種差別活動団体で働いて公民権運動の集会などにも参加していて、そうしたものはすべてボブには新しい体験だったと生前語っていた。

昨年リリースされた『ザ・ウィットマーク・デモ』に収録された“ザ・デス・オブ・エメット・ティル”なども、実際に1955年に白人男性に殺された黒人の14歳の少年エメット・ティルの話をボブがスージーから聞いて書かれたプロテスト・ソングだった。この頃の作品の多くについてボブは書き上げるとスージーの感想を求めていて、それはスージーの母親が組合運動に精通しているのと人種問題についてスージーが詳しかったからだとボブ自身説明しているが、特に“ザ・デス・オブ・エメット・ティル”についてボブは「自分が書いたものの中でも最高のもののひとつだ」と振り返っている。

あまりにも有名な『フリーホイーリン』のジャケット写真についてはニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジのジョーンズ・ストリートで撮影したものだとスージーは生前に回想していて、ボブが「両手をポケットに突っ込んで歩きながらわたしによっかかってきたの」と説明している。ただ、真冬だったため凍えそうで特にボブは薄いジャケットしか羽織っていなかったから心から寒がっていたとスージーは振り返っている。

1962年には同居していた2人だが、ボブが急激に有名になったことで2人の絆に亀裂が入り、翌年にスージーはボブのもとを離れて姉のもとへと生活の場を移すことになる。この時期ボブが経験したスージーと姉カーラとの衝突は『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』の“Dのバラッド”でも歌われていて、1985年のインタビューでボブはこの曲をレコーディングしたことは間違っていたし、後悔していると語っている。

やがて1963年にボブとジョーン・バエズの関係が噂されるようになると2人の関係は破局を迎え、スージーはその後1970年にイタリアの映画作家エンゾ・バルトッチオリと結婚した。これまで長くボブとのことを語らなかったスージーだったが、マーティン・スコセッシがボブの初期のキャリアを描いた2005年のドキュメンタリー映画『ノー・ディレクション・ホーム』でスージーは初めて取材に応じ、2009年には回想録『A Freewheelin' Time: A Memoir of Greenwich Village in the Sixties』を出版していた。
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