【コラム】Hey! Say! JUMP、『DEAR.』――少年と大人の間にあるかけがえのない瞬間について

【コラム】Hey! Say! JUMP、『DEAR.』――少年と大人の間にあるかけがえのない瞬間について

2007年にデビューしたHey! Say! JUMPは、来年10周年という節目を迎える。そのアニバーサリーに向けての布石かどうかは定かではないが、JUMPは近年、活動の幅を大きく広げ、未来の選択肢を増やしていく新たなフェーズに入ったように見える。

リアリティ番組やSNSの普及によってセレブリティと一般人の垣根がどんどん失われ、全てが開けっぴろげになっていった2000年代以降にあって、彼らはデビュー以来、ジャニーズの王道グループとして「アイドルの理想郷」を、あくまでも「夢」であるべきアイドルとファンの関係を守護する王国の王子のようなスタンスを取ってきた人たちでもあった。アイドルのオルタナ化が進む中でそれはある意味非常にクラシックな方法論だったし、時代の激変の波を受けてなおその方法論を堅持できたのは、JUMPのアイドルとしての圧倒的適性によるものだったのは間違いない。

しかし彼らもここ数年でメンバー全員が成人し、普遍的なアイドル像を築きあげてきたプライドの傍らで、成熟や変化をも意識し始めただろうことは想像に難くない。事実、近年のJUMPはバラエティ番組やトーク番組にも積極的に進出し、歌って踊れるアイドルの別の顔を見せる機会を飛躍的に増しつつある。また、今クールのドラマ『HOPE〜期待ゼロの新入社員〜』に主演する中島裕翔が商社のサラリーマンを演じ、伊野尾慧は『そして、誰もいなくなった』でミステリアスなバーテンダーを演じるなど、役者の面でも社会=リアリティにコミットした「大人」を演じるに相応しい時期に入ってきた。

彼らがこれまでファンと共に培ってきた「夢」は壊さずに、同時に「現実」としての未来をファンと共に歩む道を模索する、今のHey! Say! JUMPはそういう難しいチャレンジの只中で戦っているように見えるし、だからこそワクワクするような予感がいくつも彼らの前には転がっているのだ。

JUMPのニューアルバム『DEAR.』もまた、そんな夢と現実のハイブリット期にある彼らを象徴するアルバムに仕上がっている。まず何と言っても特筆すべきは、サウンド面での多様化、圧倒的なバラエティの楽しさであり、陰影のコントラストによって生まれるいくつもの彼らの新しい顔だ。ビッグバンドジャズを率いたミュージカル調の“Masquerade”で幕を開ける本作は、まるでサプライズぎっしりの玉手箱。ディスコファンクやシンセがアッパーに畳み掛けるEDMチューン、かと思えばマリアッチなギターとグループサウンズへのオマージュを掛け合わせたようなナンバー(“RUN de Boo!”)、フリッパーズギター(!)を彷彿させるジャズとボサノヴァのスキャットも楽しい“愛のシュビドゥバ”みたいな異色のナンバーもある。もちろん、メンバー全員が代わる代わる「君がNo.1」とささやく、コンサートで黄色い悲鳴必至の“キミアトラクション”みたいな鉄板アイドルソングも健在だ。

JUMPの過去のアルバムには、元気で、ポジティブで、ロマンティックな、現実を濾過した先に出現するワンダーランドのようなカラフルな原色の世界が広がっていた。それに対して本作の色彩は、もっと複雑なトーンを持っている。フレッシュな新緑のグリーンからセクシャルな赤や深い黒、淡いパステルトーンやスモーキーでビンテージな枯れ葉色まで、くるくるとニュアンスが変わる本作の色彩は、まるでキラキラしたワンダーランドと見慣れた日常の風景の間を行き来するような感覚だ。

「ジュリエット」や「プリンセス」というモチーフを用いることで、恋愛の生臭さを極力排除してきたJUMPのラブソングの世界観もまた、緩やかに、でも着実に変化しつつある。ふとした瞬間に掠れる彼らのセクシュアルな吐息や、いつの間にか低くなっていた声、言葉が途切れた余韻の中から立ち上ってくる「君」へのリアリティ。それは歌詞の内容云々以前に、2016年のJUMPの等身大が自ずと醸し出しているものだ。

Hey! Say! JUMPは、もはや少年ではない。でも、少年性の煌めきと引き換えに大人になろうとしているわけでもない。「アイドルの成熟」とは、そんな単純なものじゃないってことを、このアルバムを聴くと気づかされるはずだ。『DEAR.』とは、少年と大人、夢と現実のメタモルフォーゼのまさに途上にある彼らの、そのかけがえのない瞬間を封じ込めたアルバムなのだ。(粉川しの)
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