プリンスが他界。ポール・マッカートニー、フランク・オーシャン、オバマ大統領らが追悼

プリンスが他界。ポール・マッカートニー、フランク・オーシャン、オバマ大統領らが追悼

プリンスがミネソタ州チャナッセンにある自宅で4月21日に他界した。享年57だった。

プリンスは自宅やスタジオを兼ね備えた邸宅ペイズリー・パークで死亡しているところを遺族が発見したとAP通信が伝えている。発表の前には地元の警察がペイズリー・パークにて現場検証を行っているのが伝えられていたという。その後カーヴァー郡保安局では次のように発表している。

「カーヴァー郡保安官ジム・オルソンの報告によれば、4月21日午前9時43分頃、保安官事務所でチャナッセンのペイズリー・パーク・スタジオからの救急要請に応じたとのことです。保安局員と救急隊員が現場に到着してみると、施設のエレヴェーターの中に応答のない成人男性を発見しました。心肺蘇生を試みましたが、男性を蘇生させることはできませんでした。午前10時7分にこの男性の死亡が確認されました。身元はチャナッセン在住のプリンス・ロジャーズ・ネルソンだと判明しました」

保安局は近隣保安局と検死局との協力を得ながらプリンスの死の状況についての調査を続けているが、死因などについてはまだ明らかになっていない。ただ、4月に入ってから体調を崩していることは伝えられていて、ライヴも2度4月上旬に中止になっていた。さらに飛行機で移動中に緊急着陸して入院したことも報じられていたが、インフルエンザにかかったままで重度の脱水症状に陥ったと発表されていた。

その死を境にプリンスのツイッターのアヴァターも『ヒット・アンド・ラン・フェーズ・ワン』のジャケット・アートのものから、サングラスを外して目を閉じながらも額の三番目の目は開いたものになっている。

プリンスは地元のミネソタ州ミネアポリスの音楽シーンで活動を始め、頭角を現わすと若干19歳でワーナーとの契約にこぎつけ、1978年に『フォー・ユー』でデビュー。その後、『愛のペガサス』『ダーティ・マインド』などをリリースしながらロック・サウンドを大胆に取り入れた先鋭的なファンクとして知られるようになり、4枚目の『戦慄の貴公子』ではディスコやクラブを中心とするそのカルト的な人気がピークに達した。5枚目の『1999』からプリンスは意識的にロック路線も打ち出し、自分のバンドにもザ・レヴォリューションとして脚光を浴びせるようになり、同名映画製作と同時進行で制作された84年の大ヒット作『パープル・レイン』で不動の人気と絶賛を手にするようになった。さらに翌年にはロックともファンクともポップともつかない実験作にして傑作『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』をリリースし、その後の『パレード』『サイン・オブ・ザ・タイムズ』などで天才の名をほしいままにした。

90年代に入ると契約やマスター音源の所有権についてワーナーと激しく対立するようになり、さらに「プリンス」としてのアーティスト名も破棄し、一時は「♂」と「♀」とト音記号とヘ音記号とラッパが混ざったような記号を融合させたシンボルマークを自身の名前とし、さらに読み方はないと一方的に決めたので便宜的に「The Artist Formerly Known as Prince(かつてプリンスとして知られていたアーティスト)」、あるいは略して「TAFKAP」や「ジ・アーティスト」として形容されるようになった。1996年にワーナーとの契約を終えると、プリンスはCD3枚組の大作『エマンシペーション』を自身のレーベルNPGを経由して単発契約でEMIからリリースするという、当時は画期的だったリリース手法を編み出すことになった。

その後は音源集的なリリースはNPGからインディとして展開し、本腰を入れた新作についてはレーベルを変えつつ単発でメジャーからリリースし、定期的に行うツアーも常に盛況という充実した活動を続けることになった。しかし、デジタル配信については否定的で何度か自主配信を試みていたが、その後、ポール・マッカートニーやベック、フー・ファイターズらをクライアントとして抱えるコバルト・ミュージックに作品のリリース面については一手に委託するようになった。

2013年からは全員女子のバンド、サードアイガールを率いるようになり、サードアイガールとしてのファースト『プレクトラムエレクトラム』と自身の37枚目の新作『アート・オフィシャル・エイジ』を14年に古巣のワーナーからリリースしていた。また、その後は音源集の『ヒット・アンド・ラン』シリーズもリリースしていた。

ポール・マッカートニーはツイッターで次のように追悼している。

「悲しい。新年を一緒に迎えられたのを誇りに思うよ。元気そうで、最高にファンキーに演奏してた」
偉大なクリエイターに神のご加護を。プリンス、ありがとう」



フランク・オーシャンは次のように追悼している。

「安らかにお眠りくださいなんていうつもりはないよ、これは死以上の出来事だから。この人には会ったことがなかった(見かけただけでも緊張しすぎたくらいだし)し、残念ながらライヴも観たことがなかった。ぼくが知っているのは年上の人たちから聞いた伝説の数々と、常に突き進んでは恐れを知らない卓越した作品の数々によって構成されているそのカタログを聴いたり観たりしたものだけだ。この人はきっと相当に早いうちから自分に対する他人の意見についてはほぼ意に介さないことを学習したのだろうとぼくは思う。そうした気質はこの人の服の着方、髪型、歩き方、そのギターの音色と絶叫の在り方によく表れていたと思う。この人はぼくが一番好きな曲"君を忘れない"を書いた人だ。この曲は本当にシンプルな曲でメロディもシンプルで、できれば自分の方が最初に思いついて書いておきたかったと思わせる曲なのだけど、実はそんなことは絶対に出来ないわけで、これはその傑出した才能をいかにも親しみやすいものとして見せてくれる典型的な作品なのだ。この人は性的にはストレートな黒人だったのに、テレビ初出演の際には下半身はビキニ・ショーツだけでピンヒールのニーブーツを履いて登場して、それは画期的なことだった。自分の性別に応じたふさわしさなどという明らかに古臭い考え方に対してこの人が常に自由で無関心な態度を打ち出してくれただけで、ぼくは自分の性同一性についてもっと楽に構えることができるようになった。この人は既存のモデルを拒否し、自分の知的財産のための闘争を繰り広げ、そのために額に「奴隷」と書きつけ、シンボルに名前を改名したりと、自分を儲けの対象にしようとする体制と全面的に闘ってみせるその姿を見せてくれたおかげで、ぼくは自分の活動に対してもより果敢に、直感的に取り組めるようになった。ぼくの知っているあらゆる尺度からみてこの人は先駆者にして天才で、この先もずっとその名が忘れられることのない形で多くの人たちに影響を与えてきた。一生、プリンスのファン(っていうかオタク)を続けていくことをぼくは誇りに思う」

また、オバマ大統領は次のようにプリンスの死を悼んでいる。

「今日、世界はクリエイティヴな意味でのアイコン的存在を失いました。プリンスの突然の死を世界中の数百万ものファンの皆さんと同様、ミッシェルとぼくも悲しんでいます。これほどポピュラー・ミュージックのサウンドと方向性に影響を与え、その才能の力でこれほどたくさんの人たちの心を動かした人はそうそういません。ぼくたちと同時代を生きた、最も才能に恵まれ多作なアーティストのひとりとしてプリンスはすべてを表現しました。ファンクもR&Bもロックンロールも。楽器演奏者としては名手中の名手で、卓越したバンドリーダーで、しびれるようなパフォーマンスを届ける人でした。

『強靭な精神があればルールなんてものは乗り越えられる』とかつてプリンスはいいました。しかし、彼ほど強靭で、大胆で、どこまでも創造的な精神を持ち合わせていた人はいませんでした。ご遺族とバンドとプリンスを愛したみなさんにぼくたちの心とお祈りをお送りします」
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