斉藤和義@日本武道館

斉藤和義@日本武道館
斉藤和義@日本武道館
「今日、(前日の日本武道館の)追加公演なんですけど……元々、今日は、誰かが(武道館のスケジュールが)入ってたらしいんだけど、急に直前にキャンセルになったそうで。(お客さんが)入るかどうかわかんないけど、やってみよう、と思ったら、こんなに入ってくれて、ありがとうございます」

その言葉通り、てっぺんまでみっちり入った客席、大きな拍手。と、続けて、

「……いやあ、今がピークですね(笑)」

と、言わなきゃいいことを1回目のMCで言ってしまう斉藤和義さんでした。
ただ、まあ、気持ちはわかる。デビューは1993年だから、もうほぼ20年。決して苦難の道ばかり歩んできたわけではないし、初めて武道館ワンマンやったのは(今調べたら)1999年だから、それなりにちゃんと認められ、ちゃんと成功してきたアーティストではあるけれど、長いキャリアの間には浮き沈みもあったわけで、だからずっと武道館でワンマンやれる状況にいたってことでもないわけで、そんなふうにいろいろあった中で、最も成功し、最も認められ、最も動員がある状態が現在である、というのは、本人的には、なかなか感慨深いものがあると思う。と同時に、いろいろ味わってきた人だけに「この状態が続く、みたいに錯覚してはいかん」という警戒心もあると思う。が、昨日ブログで山崎洋一郎も「このピークはズルズル続くんじゃないか」とか書いていたが、確かにそう思えるライヴでもありました。

斉藤和義@日本武道館
斉藤和義@日本武道館
11月5日さいたま市文化センターから始まって、3月31日宇都宮市文化会館まで続くツアーなので、セットリストや演出など、ネタバレできません。『45 STONES』のリリース・ツアーなので、当然、“ウサギとカメ”や“ギター”などなど、あのアルバムの曲を多数プレイ。プラス、“ずっと好きだった”あたりのそれ以前の曲も、“歌うたいのバラッド”や“歩いて帰ろう”といった過去の代表曲もやりました。あと、アルバムのあとに出たニュー・シングル“やさしくなりたい”も歌いました。以上、スピードスターレコーズ宣伝部から「掲載可とさせて頂きます」とお伝えいただいた6曲を全部入れて書きました。ニュー・アルバムのリリース・ツアーとしては、順当なメニューと言えましょう。
メンバーは、ベース:初恋の嵐隅倉(斉藤和義バンド最古参)、ドラム:玉田豊夢(ドラムマガジンの2月号で、柏倉隆史とふたりで表紙を飾っていました)、ギター:キセル兄(この日誕生日だったそうで、本編ラストでメンバー&お客さんから「ハッピーバースデー」の歌を捧げられて感極まってました)、プラス、昨年夏のフェス・シーズンから参加しているギター:フジイケンジ(The Birthday)。僕はフジ・ロックで観て「ええっフジイケンジ?」ってびっくりしたんだけど、あの時はキセル兄はいなかったし、ドラムは中村達也だったので、この今のメンツによるライヴを観たの、これが初めてだったのですが。

ほんっと強力、このトリプル・ギター編成。おじさんバック・ミュージシャンに囲まれて新宿厚生年金会館とかでやっていて、お客さんの多くは座ってる、みたいな感じだった初期の頃も、小田原豊(ds)&伊藤広規(ds)との強力3ピース=SEVENの頃も、元くるりもっくん&隅倉との3ピースの時代も、エマーソン北村(key)が加わったパターンも、いろいろ観てきたし、どの時期も、それぞれとてもよかったけど……いや、そんなことないわ。初期のやつだけは「うーん、こういうニュー・ミュージックっぽい感じでやんないほうがいいのに」とか思ったわ。たぶんまだ本人がそこまでコントロールできていなかったんじゃないかと思う。が、それ以降の時期は、それぞれどれもよかったけど、「音圧でぶっ倒す」「めちゃめちゃロックンロール」「大変に攻撃的」という点においては、今のこのバンドが圧倒的だと思う。いや、過去の3ピースの時も、ロックンロールだったけど、当時の斉藤和義は「音数と人数を必要最小限にする」ということに心血を注いでいたので、「ぶっ倒す」みたいな感じではなかったのでした。
で、なんでそういう編成にしたのか。楽曲がそういう音を求めたからだ。ということが、とてもよくわかるライヴだった。あと、ちょっとした演出が各所にあったりして、バラエティに富んだ楽しいライヴでもあった。

ただし。そういう攻撃的なロックンロール・モードである、というと、3・11の時に『45 STONES』のレコーディングの真っ最中だった、とか、だからその後の曲作りがそれを受けたものになった、とか、例の“ずっと嘘だった”もそれに直対応したものだ、とか、そういうダイレクトに世の中にものを言うモードに斉藤和義は入っているから『45 STONES』はああいう作品になったのだ、とか、よってこのツアーもこういう攻撃的なロックンロール・モードなのだ、とか、そういう話にまとめるとわかりやすいけど、そんな簡単なことじゃない、と思う。
あと、最初に書いたような、今、斉藤和義がとてもいい時期を迎えている、というのも、別に3・11以降こういうモードになったから、ではないし。その何年か前から、いわゆる上り調子になってきていたわけだし。とか書くと、音楽業界の人には「それ、事務所を移籍したタイミングからじゃん」とか言われそうだし、もちろんそれも関係あるだろうけど、そういうことじゃなくてですね。

どう書けばいいかな。そうだ。たとえば、斉藤和義にとって、いろんな意味で重要なターニングポイントになった、“ずっと嘘だった”をYoutubeに勝手にアップ&その後ライヴで歌いまくり、という行動。あのタイミングであれをやったことに関しては、僕は、全面的に支持するが、ただ、歌詞の内容に関しては、正直、ちょっとひっかかるところもある。
たとえば、「俺たちを だまして」というフレーズ。「ほんとに?」と思ってしまう。だまされたの? じゃあ、それまでは「原発は安全です」っていうの、信じてたの? 僕は信じていなかった。あんなの嘘だよな、ヤだなあ、と思いながら、でも、その問題から目をそらしていた。なんで。めんどくさかったから。要は「無関心」という形で現状を肯定していたわけで、それに関する後悔や、うしろめたさや、罪の意識が、今、ある。斉藤さんはそうじゃないの? ほんとに信じてたの? それ、のんきすぎない? 「原発はこんなに危険だ」という声も、長年、あちこちから上がり続けてるのに。という。
あの曲をああいう形で歌うことで、そういうようないちゃもんをつけられることを、斉藤和義はわからなかったんだろうか。言うまでもない。わかっていなかったはずがない。でもあえて歌った、歌うことにした、という、キモはそこなのだと思う。で、それ、あの曲に限らず、そうだと思う。というか、3・11によってそうなったわけではなく、もっと前からだ、と思う。

そもそも、デビュー・シングルからして、「今はこういう時代です」「その中で僕はこういう感じで生きています」ということを歌った曲だったわけで、斉藤和義はもともと「時代」や「社会」をごく普通に歌ってきたアーティストだ。ただし、さっき僕が書いたような揚げ足をとられたり、いちゃもんをつけられたり、自分が思ってもみなかったすっとんきょうな解釈をされたり、ということがないように、最終的には「僕個人の世界」に収斂するようなやり方で、そういう曲を書いてきた。逆に言えば、「どうとられてもいいような曲」「勝手に解釈していい曲」として書いてきた、ということでもある。そのへん、とても慎重だし、思慮深かったし、ちゃんと防御しつつ創作を行ってきたアーティストだった、という言い方でもいい。
で、その「社会・時代→自分個人」という方法ですばらしい曲を作るのは、もうほとんど「極めました」みたいなところまで行ってしまったがゆえに、そうじゃない何かを模索し始めたのが、数年前だったのではないか。誤解や、否定や、勘違いを生む危険性はあるけど、それでも、広く、深く、強く届く歌を、歌いたくなってきたのではないか、ということだ。
2006年とか2007年とかそれくらいだったと思うが、斉藤和義にインタヴューした時、最近、阿久悠の作品集を買って、じっくり聴いて読んでいる、「やっぱりすごいなあ」とショックを受けた、「歌を作るんならこういう、ちゃんと届く、強いものを作らないとなあ」と思い始めた、というような話をしていた。というのも、それにつながる話だと思う。

で、その実践を始めて、それが結果となって表れ続けているのが、現在の斉藤和義のいい状況、ということなのではないだろうか。もちろん、その分、大変だと思う。音楽によって得るものや、音楽によってできることが大きくなったのと同時に、音楽によって傷ついたり、ストレスを抱えたり、何かを失ったりすることも、多くなっただろうと思う。でも、やるんだよ。と、いうことなのだと思う。

というのが、私の解釈です。万が一、本人が読んだら「はあ?」とか言いそうな気がするが、というかネット関係お嫌いなので、まず読まないだろうとも思うが、とりあえず、「曲がポップになったから」とか「露出が増えたから」とか「3・11に直対応したから」というのでは、今の斉藤和義の絶好調ぶりは、解き明かせないと思う。で、この絶好調ぶり、まだまだ続くと思う。(兵庫慎司)
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