【インタビュー】澤田空海理とは一体何者なのか? その音楽の源泉と新曲“已己巳己”で描いた「心」について

【インタビュー】澤田空海理とは一体何者なのか? その音楽の源泉と新曲“已己巳己”で描いた「心」について

時間はかかるかもしれないけど、これが刺さらないんだったらそれは僕の生き方が間違っていただけ

──メジャーデビュー曲として、また自分の内面をさらけ出すような楽曲をリリースするということには葛藤もあったと思います。

「意固地ですね、もう。やっていることに自信がついてきたっていうと変な言い方ですけど、最近は、お客さんも含めて誰かの顔色を窺って作るということはまったくないんですよね。なので“遺書”を出すときにも『これ、受け入れられるんだろうか?』という不安は一切なく。評価を放棄しているわけではなくて、これが受け入れられないなんてことはないと思っているというか。時間はかかるかもしれないけど、これが刺さらないんだったらそれは僕の生き方が間違っていただけ。そう思っています」


──“遺書”には《良い歌詞ってなんだろうか。/多分、あなたから奪い取ったものが全部そうだ。》という歌詞もありますよね。その人に対しては、「奪い取った」という感覚がずっとあったんですか?

「ありました。今もそうです。澤田空海理という存在自体を皆さんがどう見ているかはわからないですが、自分はやはり少し影を含んでいるものが好きですし、自分のアーティスト性にもそれが影響していると思っていて。でもそれは僕本来の人間性ではないんですよ。やっぱり大学まで野球をやっていたので(笑)、もともとは自分で言うのも恥ずかしいですけどムードメーカー的な性格ではあると思うんですよね。なのでアーティストイメージと元来の性格は違うんです。でも、その人になりたいと言っても過言ではないくらい、『こういう生き方ってすごく美しいよな』って思ってしまった。というところからスタートしているので、“遺書”だって、これまでの歌だって、僕はその人から影響を受けていなければ絶対に書けていないんです。でもその人は別に『澤田空海理はこうであれ』なんて、まったく思っていなくて、勝手に僕が『こうなりたい』と思ってそうなっただけで。優劣の話じゃなくて、その人にはそれを表現する手段はないけれど、僕には音楽があって、“遺書”なんて特にそうですけど、人が力を貸してくれて外に出せているわけで。だから僕とその人と、どちらがより悲しいパーソナリティーを持っているかと言えば、表現をしている人間だけがそう映ってしまうというだけで、それは『全部あなたから奪い取ったものです』と。僕がこれを書く、世の中にこういう人間だと認知されるということもすべて含めて」

──相手の感情、パーソナリティー、持っていたものを消費しているという罪悪感が消えずにあるということですよね。

「そうですね」

──そして最新曲として“已己巳己”ができあがりました。この曲、とてもとてもスローなバラードで、美しさと不穏、凪と嵐が同居する1曲になりました。

「最初は普通に和やか恋愛ポップスのような曲を書いていたんですよ。跳ねる感じの曲を。でも、提出したら『澤田さん的にはどうなんですか?』って聞かれて、それを聞かれるってことは『ダメ』ってことなのかと(笑)。僕はいい曲だと思ったんですけど、そうじゃないものがお望みならと、叩きつけるような曲を作ろうと思って。ただもう“遺書”で自分を書ききったから、次もまた『僕が僕が』っていう曲は嫌だなと思っていたところに《あなたに出会いさえしなければ/こんな惨めな化け物にならずに済んだのに。》っていう言葉が出てきて。それで、『心って何?』っていうのがここ1、2年の中で、僕の中にずっと議題としてあったんですよね。『心なんてわかるわけがない』という思いもありながら、でも『そんなの他人にはわからないんだからさ』と達観して言い始めたときこそ、ほんとに心が死ぬときだと思っていて。心だなんて実体がないものを『ある』と信じることもできるけど、それも達観した気になってしまうことの怖さがあって、それを信じ続けて、そこにロマンチシズムを求め続けたゆえにこんな化け物ができあがるという。それがこの一節。つまりはこれも僕の話です」

──サウンドは定型のポップのフォーマットではなく、相当にカオスですよね。

「カオスです(笑)。カオスパートも存在するし、最後はそこで笑っちゃってるし。編曲と言いつつ、かなりフィーリングに任せた部分が大きいと思います。激情でいいというか。激情でいいんですけど、ギターではないなっていうのがあって。ギターの歪みという概念が、いわゆる怒りや激情のメタファーとして扱われているということがあるとして、ここではそうじゃないなと。これは怒りではない。かといって大きな喪失の話というわけでもなくて。あ、そうだ、昨日MVもできあがったんですよ」

「あ、俺は人を救っている」みたいなことを思い始めたら、その瞬間に、全然誠実じゃないものができあがってしまう

──MV、どんな感じになったんですか?

「この曲のサブテーマとして、ロボットとかぬいぐるみとか、心のないものというのがあって。サビのサイドで流れているのは、心がないものが心あるものになりたいと願う、その思いというか、それはやはり僕の話でもあるんですよね。ぬいぐるみとか心のないものっていうのは、以前の僕であって、MVに出てくるぬいぐるみも、最後は成長した、筋肉のある男の人の姿になっていく。で、ずっとそのぬいぐるみを愛玩してきた主人公の女の子は、変化していく姿にちょっとずつ恐怖を感じ始めていくんですよね。それで最終的には悲しい結末を迎えてしまう。そのぬいぐるみと自分がリンクするっていうと大げさですけど、心なんてなければ、こんな気持ちにならなくて済んだのにっていうテーマがしっかり伝わるMVになっていると思います」


──ところで、“已己巳己”というタイトルにはどんな意味がこめられているんですか?

「最初は、中国語で『心』の下に『口』と書く漢字があって、『しん』と読むんですけど、その一文字をタイトルにしたかったんです。でも常用漢字ではないので、配信などで正しく表示できないというのもあって諦めて。その次に出てきたのが『々』でした。これで『同じ』と読ませていたんですけど、そのときになんとなく似ているものの総称として“已己巳己”という言葉が出てきたという感じです。でも澤田的にはこの曲は、ずっと『心に口』の『しん』なんですけどね」

──楽曲は、最後の澤田さんのつぶやきが耳に残りますね。

「あの《I miss you》は、最後だけ僕の声ですね。それまでインターで入る《I miss you》はずっとロボ声にしていて、心がない状態なんです。最後に心を会得してしまうわけですよね。そうすると、離れてしまった人はもう物理的にも精神的にも触れられないものだと悟る。そんな取り返しがつかないという思いからの《I miss you》で、それは心を会得しないと言えないもの。だから最後は人間の声に切り替わるんです。それでこの曲は終わっています」

──紛れもなく澤田さん自身の思考や感情が詰めこまれた1曲だと感じます。そして今後、また制作が進んでいくと思いますが、シンガーソングライターとして、どんな存在になりたいと思っていますか?

「僕は、ほんとにほんとの最後の到達点としては、自分の音楽を『救いの音楽』にはしたくないんです。『澤田空海理が心の支えでした』みたいなことを言う人が何人もいるという状態は避けたいです。それはもちろんありがたいことですし、今の自分はそれを望んでいるということも間違いないんですけど、それを続けていけばいつか不誠実になると思う。僕は別にみんなを助けたいと思っていないし、僕は僕でひとりの人のことをずっと書いてきただけですから。たぶん『この曲が救いでした』みたいなことを言われ続けて、僕も『あ、俺は人を救っている』みたいなことを思い始めたら、その瞬間に、全然誠実じゃないものができあがってしまう。だから、その感覚とは距離を置きたいんです」

──ライブ活動は今後、積極的に行っていく予定ですか?

「今年はとにかくバンドをやりたいです。弾き語りは弾き語りで好きなんですけど、やれることの少なさはどうしてもありますし。やはり僕は弾き語り系のシンガーソングライターではないなと思うので、バンド編成でのライブをやっていきたいですね」

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