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フラワーカンパニーズ、2年ぶり・通算13枚目にしてあからさまに過去最高傑作のニューアルバム『チェスト! チェスト! チェスト!』の完成及びリリースを記念して、RO69ではこのような特集を組みました。1989年の結成から、2010年10月の現在まで。上京やデビューや小さな小さなブレイクや、下り坂やメジャーからのドロップアウトやひたすら地道なツアー生活や、再浮上や動員&セールス上昇やメジャー復帰などなど、結成21年、メジャー・デビューから15年、メジャーからドロップアウトしてから9年、再びメジャーに復帰してから2年……くどいですが、とにかくそんな21年間の10大事件を、ボーカル鈴木圭介と、ベース&リーダー・グレートマエカワと、何がうれしいんだかその21年のうち17年以上をリアルタイムで追ってきたRO69兵庫との3人でふり返る、総括インタビューです。4回に分けて、4日連続アップしていきます。


事件1
結成:全然趣味が合わない人たち、エレカシとURCで団結する
(1989年)    



―― フラワーカンパニーズ、21年間の10大事件という企画です。まず、事件1は「結成」ということで。いくつの時でしたっけ?

鈴木圭介(以下圭介): えーと、20歳の頃だから――。

グレートマエカワ(以下マエカワ): 89年の4月23日が、一応、結成記念日。

圭介: 最初のリハーサルやった日だ。

―― 誰が言い出しっぺで、どのように集まったんでしょうか?

マエカワ: 言い出しっぺは俺なんだけど。大学1年の末ぐらいに。

―― 元々、中学の同級生なんでしたっけ?

圭介: このふたりと、小西くん(ミスター小西:ドラム)の3人が、同じ中学だったの。で、高校は俺と小西くんが一緒で、この人(マエカワ)と竹安(堅一:ギター)が一緒で。

マエカワ: でも、高校違っても、ほんとによく遊んどったから。それぞれ違うバンドでやってて、一緒にライブやったり。

圭介: 毎年、海に泊まりに行ったり。

マエカワ: そう、下呂温泉に行ったりとかね(笑)。元々はそういう仲間で。で、俺は大学に行ったら、高校時代の奴と一緒にバンドやろうと思っとったんだけど、俺が組みたい奴がみんな浪人して。竹安も含めて。だから、そいつらが大学に入ったら一緒ににやろうと思ったら、大学はみんな受かったんだけど、地方にバラバラになっちゃって。竹安は地元に残ったから、じゃあボーカルとドラムを探そうと思ってたら、ちょうど身近に鈴木と小西がいたから。
で、たまたま3月に、友達が集まってやるようなライブがあって、その時に「一緒にやらない? 俺の高校の時の友達で、結構ギターいい奴、おるんだけど」とか言って。でも、「バンドやらない?」っていうより、その時は俺、1回スタジオ入りたかっただけなんだけど。

圭介: そうだね、「音、合わせてみよう」って。僕は小西くんとは中学3年からの付き合いなんだけど、高校1年からいろんなバンドを、ふたりで渡り歩いてきたって感じで。で、その時ちょうど、ふたりで一緒にバンドを脱退したばっかりだったから。「じゃあ、やってみよう」って。

マエカワ: それで、1回、2回スタジオに入っていくごとに、「ちょっとオリジナルとかも作ってみようか」って話になって、セッションで、その場でジャムってメロのせて、新曲を何曲か作って。まあ、なんにもやらんよりはおもしろいし、普通に楽しいじゃん。元々、友達だしさ。

―― 一緒にバンドやったのはその時が初めて?

マエカワ: 一緒にやったのは初めてだね。音楽のジャンルはまったく……鈴木と小西はパンク志向だったから。

圭介: そう、俺はパンクがずっと好きだったから。高校の時も、ラフィン・ノーズとか、ニューロティカとかをカバーしてたり。で、自分らの曲を作るようになったけど、それも要するに、当時で言うビート・パンクみたいな感じで。

マエカワ: で、俺と竹安は完全にアンチ・パンクで。オールド・ロック、ブルース・ロックみたいな、そういう志向だったから。だから、スタジオに入ってみた後も、ずっと一緒にやっていくっていうのは、こいつらも思ってなかっただろうし、俺も思ってなかったのね。ただ、初期のストーンズとか、スモール・フェイセズとか、そういう60年代のブリティッシュ・ビートものは、どっちもすごい好きだったから。そのへんでの音楽の共通項はあるな、っていうのはわかっとったけど。

圭介: ただねえ、ストーンズとかツェッペリンとか、そういうのは大丈夫なんだけど、ザ・バンドとか、スワンプ系とかにいかれると、俺は全然ダメなの。レイナード・スキナードとか、そっち系がすごく好きだったから、マエカワ・竹安は。アメリカのサザン・ロックとかさ。たとえば、高校時代、日本人なのに、ジーンズのヒザんとこに、アメリカ南部の旗のバンダナみたいなの巻いて、ライブやってんだもん(笑)。

マエカワ: それ、フラカンの初期のときにもやってたよ。

圭介: 「なんで他の国の国旗を巻いてんだよ!?」ってずっと思ってたのね、俺(笑)。

マエカワ: だから、音楽志向的には、全然合わなかったんだよね。俺は俺で、鈴木を見てて――高校の頃の、そのビート・パンクみたいなバンドで、結構女の子に人気あったんだよ。それで、「あいつはチャラいからよ」って感じで。だから、友達だったし仲よかったけど、全然一緒にやる感じではなかったんだね。

圭介: ただ、竹安くんが、アイリッシュとかがすごい好きで。ちょうどその頃、ポーグスがすごい流行ってて、「あ、ポーグスだったらちょうど接点だね」って。

―― ああ、アイリッシュな感じだし、パンクっぽくもあるし。

圭介: そう、リズムはタテノリでしょ。でも、演奏しっかりとしてて、味わいもあるっていうさ。だから、最初は、あんなような感じの音を目指してた。でもああいう楽器編成じゃないから、この4人でやると(笑)。

マエカワ: うん。まあ、下手だったしね。

圭介: ジッタリン・ジンをダメにしたみたいになっちゃった(笑)。あんなにかっこよくはならないの。要するに、カントリーっぽくなっちゃった。

―― それが、やっていくうちに、だんだん「あ、これいけるんじゃない?」ってなるの?

マエカワ: いや、「いけるんじゃない?」ってなったわけでもなく(笑)。ただ、5、6曲オリジナルができたから「じゃあ、ライブやろうか」って。で、ライブやって。

圭介: でも、ライブやったけど、最初の10曲ぐらいまでは、あんまりよくないっつうか、「う~ん」みたいな感じだったね。

マエカワ: そうだね。鈴木のその前からの流れでさ、全部恋愛ソングだったのよ。で、鈴木もその頃、かわいい感じのキャラだったから。俺とか、そういうのまったくイヤだったし、竹安もそういうの好きじゃない感じで。そのへんが合わないながらも1年ぐらい続けて、「う~ん、ちょっとなあ……」って思ってたところもあったんだけど。でも、やっぱりバンドやるのは楽しいしさ。

圭介: あと、やっぱあれだよ。E.L.L.(名古屋の老舗ライブハウス)出だしたから。

マエカワ: そう、それくらい、俺らにとって大きなものだったから。

圭介: やっぱりE.L.L.ってすごいんだよ。完全に名古屋の登竜門で、敷居も高かったから。そこに出られるようになったっていうのが、自分たちの中では、「これはやっていくべ」と。

―― 「趣味は合わない、やっていても今いちいいとは思えない、でもE.L.L.が出してくれるっていうことは、このバンドには何かあるんじゃないか?」みたいな。

圭介: そうそう。

マエカワ: で、ちょうどその頃に、エレカシを聴いて、エレカシ・ショックがあって。3rdアルバムからかな。

圭介: 3rdアルバムだね。それこそあれですよ、最初、E.L.L.にデモテープを持っていく時に、「なんて挨拶したらいいんだろう?」って、E.L.L.の隣の喫茶店で、みんなで会議をしたんですよ。その日、ちょうどエレカシがライブで、「エレファントカシマシ」って書いてあるバンが停まってたの。「あれ、今日、エレファントカシマシなんだ」って言ってたら、その喫茶店に4人、いたんだよ!

マエカワ: 俺らのテーブルの隣に。

圭介: (ヒソヒソ声)「エレファントカシマシがいる!」って。音は聴いたことなかったんだけど。そのあと、E.L.L.にデモテープを渡して、帰って……俺、レンタル屋でバイトしてたから、早速聴いたら、もうめっちゃくちゃかっこよくて。「すっげえ! このバンド」ってことになって。そこで初めて、外タレじゃなくて、日本のバンドで共通項ができたの。

マエカワ: 「この間のエレファントカシマシ、すごいよ!」って聴かせてもらってさ。特に1stアルバムの、あのロックンロールの感じ。歌詞もすごいし、ドンピシャはまってさ、「これはすごい!」って。そこからもう、エレカシのケツを追うような曲をたくさん作るようになって(笑)。

圭介: 完全にモノマネしだして。俺は3rd、『浮世の夢』を最初に聴いて、「何これ!?」みたいな。それで、書く歌詞とかもまったく変わっちゃったね。ラブソング1曲もなくなっちゃった。自分のトラウマをさらけ出すみたいな歌詞ばっかりになっちゃって。

―― 露骨に影響を受けたと。

マエカワ: 露骨だったけど、あそこからほんと、ガチッときたね。エレカシはすごいなと思って。

圭介: エレカシと、あとその頃、URCレーベル(1960年代末~1970年代、日本のフォークをリリースしていたレーベル)が復刻したから。高田渡さんとか。それも「すごいかっこいいな」ってなって、そこも共通項になったの。

マエカワ: やっぱりアンチ体制じゃないですか、どっちかっていうと。音的には、エレカシも、URCも、パンクとかの感じじゃないじゃん。そこも、俺とか竹安も受け入れやすいし、ガチッとはまったね。

―― はまったけど、その時点で、完全に時流から外れたわけですね。だってその頃って、バンド・ブーム全盛でしょ。

圭介: そうだね。だってビート・パンク全盛だもん。

マエカワ: でも、そうなる前――フラカン始まった時は、鈴木のキャラクターとか、歌ってたことも含めて、その頃の時流の感じだったと思うもんね、確かに。

圭介: シマシマの長袖Tシャツみたいなの、そんな時代だったね。

―― ブラックスリムのジーンズ、ラバーソウル、リズムに合わせてピョンピョン跳ねるみたいな。

マエカワ: そうそう。だから、ボーカルはラバーソウル履いてるのに、ベースは何故か裸で、「これどんなバンドなんだよ」っていう(笑)。

圭介: そんな感じだったね。



事件2上京、なんとかメジャー・デビュー(1995年)


―― で、そうこうしているうちに、当時のソニーのSDオーディションにひっかかったんでしたっけ。

マエカワ: や、違うの。コンテストに出たんだけど、それの審査員がソニーの人で。

圭介: 名古屋にしかなかったコンテストだよね。それで「CBSソニー賞」っていうのをもらったの。あと、「ベスト・ベーシスト賞」ももらった。

マエカワ: "ダイヤモンド"っていう曲で。2ndアルバムとかにも入ってるんですけど。その頃、その曲が俺らの代表曲だったから。

圭介: そう。エレカシの「デーデ」に、思いっきり影響受けて作った曲(笑)。

―― あははは。

マエカワ: そこから、その人がライブも来てくれるし、飯もたまにおごってくれたりもするんだけど。でも、別にデモテープとか作るわけでもなく。

圭介: プレゼン・ライブをするわけでもなく。

マエカワ: そうこうしてるうちに、インディビジュアルズ・レコーズっていう、ソニー内にできたインディーズ・レーベルから出さないか、って話が来て。その頃、俺らも大学4年くらいで。鈴木とかは、絶対バンドやるって言ってたけど。

圭介: そう、俺はこのバンドが解散してもやっていくって言ってたんだけど――。

マエカワ: 俺とかは就職しようかなって思ってたし、小西も思ってただろうし。俺、元々の志向性で、大学を卒業してさ、バンドやりながらフリーターなんかなる感じじゃないから。

―― (笑)そうなんだよね、本来は。

マエカワ: ねえ。でも、人気も出てきたわけよ、その頃。E.L.L.でね、たまにワンマンやったら、100人くらい入るようになって。知名度も上がってきたし、曲もいい感じになってきたから、楽しいなと思って。っていう時に、CD出せるっていう話がきたから、「あ、これ決定打出ちゃったな」とか。

圭介: CDはやっぱり大きかったね。当時は、今みたいに自分たちでCD出せるって、まだなかったからね。インディーズといえどもCD出せるのかってなったときに、「やっぱこれはやらないと」っていう。

マエカワ: で、大学卒業して、しばらくやってたら、結構、名古屋の中でいい感じになってきて。で、「やっぱ東京行かないとダメだな」ってなって。「あと1年バイトで金稼いで東京行こうぜ」って話をしとったら、その何ヵ月か後に、ソニーのディレクターの人から連絡があって。その頃には、プレゼンライブみたいなのを、何回かしてたんだよね、東京に行って。ただ、1個もひっかからなくて。で、「これはダメだな。今日最後だから」とか言われて、「え、今までもそうだったんだ!? プレゼンライブだったんだ?」って。俺、まったく知らずにやってたから。

―― (笑)なんで?

マエカワ: ただ単に、東京でライブやれるっていうから、「じゃあ行きますよ」って普通にやっとったつもりだったの。で、「最後だよ」って言われて、その時もダメで、「まあ、しょうがねぇな」「でも俺ら東京に行くこと決めてるし、やろうぜ」って言ってたら、その何日後かに、当時の名古屋のSDの人から、俺のバイト先に電話がかかってきて。「すごい気に入ってるディレクターさんがいるから、1回会ってみない?」とか言われて「会う会う」って。
で、会って、その人が俺たちのディレクターになるんだけれども。ただ、当時、その人が所属してたキューンレコードでは出せなくて。なぜならば、その人の上司でひとり、俺たちのことを大嫌いな人がいて。「このバンドは絶対売れねぇ」って言って。でも、その人、正しくてさ。その時、キューンがやるかどうかっていう新人で、フラカンとL'Arc-en-Cielがおって、どっちかっていって、ラルクをとって、大正解っていう(笑)。

―― あははは! 確かに。

マエカワ: だからいい話(笑)。

圭介: 俺たちとってたら、今頃キューンなくなってたかもしんない(笑)。

マエカワ: それで、キューンでは出せないけど、そのディレクターが、事務所としてシンコー・ミュージックを紹介してくれて。シンコー・ミュージックの社長とスタッフを連れて名古屋まで来てくれて、「東京に来るならうちの事務所でやらないか」って感じになって、レーベルはそのあと探そうと。こっちはどっちみち東京に行くつもりだったから、事務所がつくってうれしいじゃん。しかもシンコー・ミュージックって、でかいし、歴史もすごいじゃん。プリンセス・プリンセスとかいて。「すげー、これは」って。そんなこんなで上京して。

圭介: ライブをガンガンやったんだよね、とにかく。

マエカワ: うん、バイトしながら。

圭介: ライブは月4回か5回とかやってたかな。

マエカワ: 契約した時に、とにかくライブがやりたいから、ライブだけは絶対に止めてくれるなって話をしたんだよね。いろんな人が言うじゃん。「事務所入ったら気をつけろよ」みたいな。「ライブとかやらしてくれなくて、飼い殺しにされるから」って。だから、仮契約する時も、「ライブだけは絶対にやらしてください」「俺たちがやりたいって言ったらやらしてください」とか言って。

圭介: それぐらいじゃないの、兵庫さんが初めて見たの。

―― いや、東京に引っ越してくる直前でしたね。で、東京に来たはいいけど、なかなかレコード会社が決まらなかったですよね。

圭介: 1年ぐらい決まらなかったよね。

マエカワ: そうだね。94年の2月に東京に来て、その年の暮れぐらいに決まったんかな。

圭介: そのディレクターが異動になって。それで、ソニーの新しいレーベル、アンティノス・レコードから出ることになって。

マエカワ: それでレーベルが決まって。でもその前、そんな感じでライブを結構やっとったから、その1年の間にお客さんがちょっとずつついてきて。1年かけて、お客さんが100人ぐらい入るようになったんだよね。俺、覚えてるのがデビュー前の95年の4月が、1番フラカンがガッて変わった歴史なんだけど。それまで、お客さん来ててもあんまり盛り上がってなかったの。

圭介: 微動だにしないみたいな。

―― そうでしたね、憶えてます。

マエカワ: だけどデビュー直前の、4月にやった下北のガレージのライブが、盛り上がって。みんな踊ってんの。「おお、踊ってるよ、すげえ!」って思って。それで、こっちもうれしくなっちゃってさ。デビュー前に、これちょっと雰囲気変わってきたな、盛り上がってきたなって思って。

―― で、デビューしたはいいけど。いきなりミニアルバムだったんですよね。(『フラカンのフェイクでいこう』1stアルバム / 1995年)

マエカワ: 8曲入りだけど、俺らの中では普通のアルバム。

―― で、シングルなし、シングル盤は作られたけど、宣伝用のサンプルだけっていう。

マエカワ: そうだね。シングルなしで、PVもちゃんとしたのはなかったね。

圭介: なんかジャケット撮影の風景をバーッと撮って。

―― そう。曲は「ライトを消して走れ」だったんだけど、演奏もライブを撮ったのをコラージュっぽく音にはめてあるだけで、曲と映像が合ってないんだよ。

マエカワ: そう、吉祥寺曼荼羅のライブね。だから、今考えるとお金かかってないんだよ、デビューの時は。

―― 当時、いきなり暗雲が立ち込めましたよ、俺の中では(笑)。「え、PVもこれ?」みたいな。だって、今でも憶えてるんだけど、当時ロッキング・オン・ジャパンで「これからの有望新人バンドはこの3つだ!」みたいに、カラー6Pずつインタビュー載せたの。

圭介: THEATRE BROOKと、GREAT3と、俺らでしょ? 憶えてる憶えてる。シンコーのスタジオまで写真撮りに来てくれたじゃん。

―― そう。で、ほかのふたつはすごい鳴り物入りで。

マエカワ: そうだね、うん。

圭介: それで、俺らだけ「誰だこいつら?」っていう(笑)。

マエカワ: でもその頃、ライブの雰囲気はすごいよかったし、お客さんがのってきたっていうのもあって、俺たちも「ライブってこういうもんなんだ」っていう、そういう楽しみ方がちょっとずつわかってきたっていうか。やっててすごい楽しかった、どのライブも。

圭介: 対バンとかで、結構お客さん食いまくって――いや、あれですよ、そういう意味じゃなくて。

―― わかってます(笑)。

マエカワ: それで、お客さんが、次のライブではけっこうフラカンを観に来てくれたりね。それで、だんだん増えていって。ガーンッて火がついた感じじゃないけど、俺らの中ではすごいムードよかったよね。



事件3
フラカン、ちょっとだけ売れる、
そして「ちょっとだけ」ゆえに煮詰まる(1998年)



―― 一番人気があった頃って、大阪球場と日比谷野音をやるあたりでしたっけ?

マエカワ: そうだね。一番CDの枚数が売れたのが、98年だからね。

圭介: 上ってるときだね、お客さんの人数とか。

―― この時期はどういう感じだったの? わけもわからず必死だったのか、それとも「ああ、うまくいってるなあ」って思えていたのか。それとも、「同期のミッシェル・ガン・エレファントやサニーデイ・サービスに比べると、俺らダメだなあ」って感じだったのか。

マエカワ: 全部あった。雰囲気は悪くはない、いいんだけど、その分困ってたところもあるから。「うわ、俺たちもっとうまくならないと」とか、「なんでこんなに売れねえんだよ」とか、「もうちょっと売れるはずなのに」とか。

圭介: 俺はつらいほうが大きかったな。ずーっと他のバンドと比べてたもん。「あそこはあんだけお客入って、なんで俺たち入らないんだろう」とか。「演奏がダメなんじゃないか」とか、そういうことばっか言ってた。あと、事務所の人に、「ほら、このバンドはカラーで6ページ、なんで俺ら2ページなんだ」とかさ、そういうことを。全雑誌読み漁って、もう逐一マネージャーに言ってた。

マエカワ: 鈴木は、デビューしてちょっとした後ぐらいから98年ぐらいまでは、もう一番ピリピリしとって。リハ中も歌わなくて、「ちょっと俺、歌詞、書いてくるから」って感じで。まあ、それはそれで別にいいんだけど。だから一番孤独だったと思うよ、鈴木はその頃は。

圭介: ずーっとシンコーの便所にこもってたもん、歌詞書くのに。ほとんど便所で書いたね、当時の曲。

マエカワ: だから、状況はいいんだけど、もうひとつ破れんな、みたいな感じはめちゃくちゃあった。そういう閉塞感がありながら、やってたかな。ただ、周りのスタッフもすごく応援してくれてるし、それはわかるじゃん。ライブを観に来てくれる人も多いしさ。

圭介: 打ち上げもみんな出てきてくれるし。

マエカワ: こっちはこっちで、バンドの中の関係は、難しい時もあるけど、いつもそうってわけじゃないからさ。楽しくやってる時もあるわけで。だから、そういう雰囲気はすごいよかったかな。

―― ただ、今になって思うと――当時のスタッフの人たち、みんな愛も熱意もあったし、批判をするつもりはまったくないけども、やっぱり噛み合ってなかったところもあったんでしょうね。ほら、「ヒコーキ雲」で『HEY!HEY!HEY!』出るのに、お揃いで水兵さんのかわいい衣裳だったりさ。

マエカワ: あったよねえ。

―― あの時の、テレビの前で「ええっ!? ちょっとこれは……」っていう落胆、僕は忘れられないんですが。で、本人たちも絶対「ええっ!?」って思っただろうけど、そこで呑んじゃったわけでしょ。だから、スタッフが悪いっていうんじゃなくて、本人たちも、周囲も、それこそ我々のようなシンパまで含めて、「このバンドはこっちだ!」っていうのが見えていなかったんじゃないかな。っていう反省があります、俺は。

圭介: そう。スタッフどうこうじゃなくて、こっちもブレてたんだよ、結局。流されてた。そこで、「いや、それは絶対ヤだ」って言えてたらね。ヤだったの、正直あれ。もめたんだもん。だって俺は最初、陸軍の格好で出るって言ったんだから。兵隊の格好で出て、歌詞の最後で「♪振り向いてピース」っていうのがかっこいい、って言って。だけど「陸軍はちょっとシリアス過ぎる。せめて海軍」って。だからあれ、こっちとしては海軍のイメージのセーラー服だったんだけど、かわいくなっちゃったんだよね。

マエカワ: ストーンズの"It's Only Rock 'N Roll"みたいな感じでやるつもりが。

圭介: 日本で、海軍って根づいてないんだよ、そもそも。あれ、失敗したね。

マエカワ: そういう失敗もあったから。今思うとあれ、すごい重要なとこじゃん。もしかしたら一番重要だったかもね、あの頃のフラカンにとっての『HEY!HEY!HEY!』っていったら。

圭介: また、そのちょっとあとに、ミッシェルが出て、生演奏とかしてね。

マエカワ: かっこいいんだよな。

圭介: 俺たちアテブリでさ。なんかもう、ガックリだったよな、あれな。

―― そう、ミッシェル最高だったもんね、あの出方。俺も「ああっすんげえかっこいい! 完璧! フラカンはあんなだったのに……」って落ち込んだのを憶えてます(笑)。

圭介: あれはだから、うらやましかったね。ガチッとコンセプトも決まっててさ。ブレてないし、演奏めちゃくちゃかっこよかったし、カリスマ性もあるしさ。もう、ほんとコンプレックス感じてたね、俺は。

―― あれ、当時、レコード会社のスタッフにきいたんだけど、「生演奏じゃないと出ません。で、3曲やらしてください、放送上は途中でブチッて切っていいんで」っていうので押し通して、ああなったんだって。だから、本人たちも、レコード会社も、事務所も、どこもブレてなくて、全員一丸となってガーンッていっていた、その結果だと思うんだよね。

圭介: そうだよね。あと、もちろんバンドの音がいいのはあるけど。

マエカワ: それもあるよね。曲がね。当時のフラカンの曲を聴くとさ、今だったら、「ああ、これはわかりにくいわな」とか、思うことは多いもんね。ライブの演奏能力もあるんだけど、それよりも、曲の作り方とか、ちょっと丁寧じゃないなっていう。

―― だから、当時の感じとしては、ガシーンと一丸となって正しい方向へ突進するミッシェル。熱意はあるんだけど、どうもかみ合わないフラカン。好き放題やって、どんどんうまくいくサニーデイ・サービス、みたいな。

圭介: あと、ホフディランも、ガンガンいってたしさ。あせってたもん、すっごいあせってた。「絶対売れなきゃダメだ」って。

マエカワ: あと、俺が当時思ってたのは、ロック方面のイベントとかに、俺らあんまり呼ばれてなかった。呼んでくれたの、「SWEET LOVE SHOWER」ぐらいでさ。

圭介: そう。ロック方面ってより、なんか、歌ものバンドとばっかりやってた。

―― はっきり言いましょう。イメージが悪かった、当時のフラカンは。

圭介&マエカワ: そうだね。

―― やっぱりチャラいイメージのバンドで。同期とは仲いいけど、先輩にかわいがられず、後輩に慕われず、唯一の味方は、斉藤和義と草野マサムネだけっていう。

圭介: そうだったよねえ。特に斉藤くんは、事務所も一緒だったし。

マエカワ: スピッツも97、98年とか、よくライブに来てくれたよね。

圭介: だから、あんまり音楽の中身で評価されてないっていうジレンマがずっとあった。アイドル的な感じだったもん。自分で言うのもなんだけど。

マエカワ: まあ、アイドルではないけど、スペースシャワーで番組持って、鈴木と俺とで司会やってたじゃん。だからそっちのイメージのほうが強かったんだよね。「なんかチャラい軽い感じのやつだな」って思われとったよね。

圭介: キャーキャー言われてたし、やっぱり。だからサニーデイとかうらやましかったもん、すごく。

―― ああ、ちゃんと音楽的な評価があると。

圭介: うん。メロディーとか、歌詞がさ、ちゃんと評価されてた。俺らの場合は、ライブ中のMCのこととか、そんなことばっかり言われてさ。曲本来のことはあんまり言われなかったもんな、今思えば。そういうコンプレックスずっとあったんだよ、あの時は。

―― 俺もすごくありました、当時。「評価されねえなあ」っていう。

圭介: とはいえね、動員はどんどん増えてたから。

―― 「どんどん」?「どん」ぐらいじゃない?

マエカワ: マエカワ:まあ「どん」ぐらいだけど(笑)。

―― とりあえず、初の日比谷野音はソールドアウトしなかったぞ(笑)。

マエカワ: うん、それと、98年の大阪球場ぐらいがピークでね。で、そこからだよ。そこから、次回の話になっちゃう(笑)。



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