ポップの全体主義、その到達点

コールドプレイ『マイロ・ザイロト(MX)』
2011年10月19日発売
ALBUM
コールドプレイ マイロ・ザイロト(MX)
原理的に言ってしまえば、コールドプレイの究極の目標は、世界と同一化することである。だから、彼らのポップ・ミュージックは、仮想敵としての他者や外部を一切持たない。全てを包みこみ、全てを肯定してみせるコミュニケーション。その終わりなき欲望に突き動かされるようにして、彼らは自分たちの音楽の規模と純度を、次々に更新してきたバンドだった。そして、すでに数千万枚のセールスを手にしながら、彼らが3年ぶりに到達したネクスト・レベル。それが今回のアルバムである。半数近くの曲はすでに様々なフェスで披露済だが、改めて音源に触れると、そのサウンド・テクスチャーの未体験の厚みにぶっ飛ばされる。アコギ中心の素朴とすら言えるバンド・サウンドの奥行きと、壮大なコーラスとメロディが切れ目なく畳み掛ける周到な曲構成。サウンド・デザインの複雑さと、より普遍的なポップ・ソングの両立という根本的な矛盾を、彼らは完全に飲み込んでひとつにしてしまったのである。これが可能になったのは、ついに「共作曲者」としてクレジットされたブライアン・イーノの音楽的欲望をも、彼らが100%内面化したからである。そして重要なのは、彼らがこのアルバムを、確固たる希望へ辿り着く一篇の物語として描いたことだ。この救いのメッセージを、他者なき世界の楽観主義として退けるには、あまりに美しく、あまりに心地良い。つまり彼らを愛するとは、そういう矛盾を聴き手自身も引き受けることだと、このアルバムは改めて告げている。傑作だ。(松村耕太朗)

ロックを包括し、逸脱する傑作
 
コールドプレイの音楽が持つ闇雲な昂揚感、天上目指して駆け上がるカタルシス、「無宗教の聖歌」のごときドラマツルギーが、過去最大値を記録した新作である。前作『美しき生命』はコンセプト・アルバムの体裁を持ち、これはシングル曲でこれはインタールードで、といった配置の采配も感じられる作品だったが、本作においてもはやそういう区切りは決壊している。代わりに全体を覆っているのは「もっと」という強迫観念。しかも彼らの場合は「もっと」の方向性は度外視で、手あたり次第全てを120%にするという無作為かつ贅沢、かつ非エコな「もっと」であるのが凄まじい。こんなことはクリス・マーティンという人の底抜けとほぼ同義な無限の才能なくして不可能だっただろう。そんな本作の過剰な情報量と濃度に関してクリスは「ジャンルの垣根を越えたかった」と説明していたが、たしかに本作のそれは「非トラウマティックなカニエ・ウエスト」と呼ぶべき次元に達している。リアーナがヴォーカルで参加したM10も特に屹立することなく、本作の膨大なヴァラエティのひとつとして溶け込んでいる。飽和と言う名の調和が成立した、そう信じられるとんでもないアルバムである。

コールドプレイが現在のロックの数少ない希望であることは違いない。しかし、本作における彼らは『美しき生命』のモチーフにもなった自由の女神のようにロックを導くというよりも、ロックの進化論から外れて新たな生態系をいちから作り上げてしまったのではないか。あまりにも孤高な全てがここにある。(粉川しの)
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