SEKAI NO OWARIの『炎と森のカーニバル』について書きました。(発売中のJAPAN今月号「激刊!山崎」より)

SEKAI NO OWARIの『炎と森のカーニバル』について書きました。(発売中のJAPAN今月号「激刊!山崎」より)

セカオワの『炎と森のカーニバル』に行ってきた。驚いた。何にもない空き地に30mの巨大樹のセットが建てられていて、その下にステージが組まれているのだ。ステージはともかくとして、そのステージを森のように覆う木、でかすぎるだろう。最初のデザイン画では15mだったのを、深瀬が見て満足できなくて30mに作り直したらしい。しかもその巨大樹には電飾が組み込まれ、ウォータースクリーンも仕込まれている。下からは炎が吹き上がり、何十ものレーザーが飛ぶのである。大掛かり、というよりも、無茶、である。そして、藤崎彩織がブログで書いていたように、総製作費は5億円だそうである。5億円である。イベント制作のプロならわかるが、一日2万人の3日間のこのイベントの制作費が5億円ということはどう計算しても大赤字である。いや赤字であるとか言う以前に、今このご時世に、バンドが5億円使って大赤字を抱えてでもやりたいことをやるという、そういう無茶を久しぶりに見た。自然エネルギー発電がとか、チャリティーがとか、そっちに意
識を向けているバンドはたくさんいるが、15mの木に満足できなくて30
mに作り直して、ウォータースクリーンと炎とレーザー使って5億円かけてしまったなんていう話は今どきまったく聞かない。僕はセカオワが大好きである。
 そして会場に入るとみんなカメラや写メで会場やステージを撮っている。そしてライブが始まってメンバーが出てきてからも自由にステージの写真を撮っている。撮影自由なのである。これも最近ほとんど聞いたことがない。ネタばれとか、肖像権とか、情報解禁日とか、いろんな制約やルールがあって、会場内ましてやステージやメンバーの写真を撮るなんてもってのほかというのが当たり前のルールになっているが、セカオワのライブは完全に自由なのである。記念に残したり、友達に送って見せてあげたり、ツイッターやブログにアップしたり、自由にできるのである。
 ファンタジーだった。バンドをやったらこんなことがしてみたい、こんな風にしてみたい、と思い描く無邪気なファンタジーが会場内に満ちあふれていた。じゃあ、現実はどこへ行った?
5億円の製作費と大赤字? そうかもしれない。いや、そうだ。大変な現実だ。でも、あの場でみんなが共有したファンタジーと5億円という現実を比べて「現実のほうが重い」と言い切れる人がいるのか。もしいるとしたら、そういう人はあまり音楽とかに関わらない方がいいと思う。現実?それがどうした?と言い切れる人だけが音楽を面白くする。ほんとうに面白い音楽、ほんとうに面白いアーティスト、ほんとうに面白いバンド、みんな「現実?それがどうした?」と言い切る決意と力を持っている。はずだ。

 そう言っている僕自身、実はファンタジーなんか大嫌いだった。ディズニーランドなんか死んでも行くか!と思っていたし、リアリティーのかけらもない歌を歌うシンガーもバンドも大嫌いだった。それは、僕が10代・20代を生きてきた時代そのものがファンタジーだったからだ。未来は明るくて、将来はどんどん豊かになって、正義が最後には勝って、世界はいつか平和になる―――そんな嘘だらけのファンタジーが「現実」としてさも当たり前のように僕の周り360°を取り囲んでいたからだ。だから僕は本当の現実が見たかった。本当の現実の手触りが欲しかった。これ以上ファンタジーなどいらなかった。
 今は違う。誰もファンタジーなど信じていないし、現実と素手で戦うのに必死だ。音楽においてさえそうである。小さなサークルの中でしか音楽のファンタジーは成立しなくなっているし、アーティスト、バンドたちもそこから出ようとしないし、出るのは大変なことだ。その意志と能力を両方持つ者はそう多くはない。
 セカオワの曲は明るいのも暗いのもある。歌詞も陽気なのもダークなのもある。でも、音楽はポップである。悲しい歌には悲しい音が、楽しい歌には楽しい音が、素直に鳴っている。それは、彼らにとって音楽はファンタジーを生み出すものだというはっきりとした意志があるからだ。そのファンタジーをみんなで共有するためにはどこまでもポップでなければならないと知っているからだ。ファンタジーの力を彼らは信じている。だからセカオワはどこまでも大胆に戦えるのだ。
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