音楽のスタイルやシステムの進化について書きました。今月号JAPAN「激刊!山崎」より

 長いあいだ、モヤモヤしていたことがあった。
この数年間、いやもっともっと長いあいだ、ずっと心の中でモヤモヤし続けてきたことがあった。
そのことについて一度はちゃんと書きたいと思い続けてきたが、モヤモヤしているぐらいだから自分の中でまだ簡潔な結論が出ていないわけで、そんな自分が中途半端に書くとモヤモヤの原因を攻撃して満足するだけの非生産的な文章を発信して終わってしまって、それは結局またモヤモヤを増幅させるだけでなにもいいことがない―――ということになるのでそういう不毛なことはやーめたとスルーしてきた。
でも、もう書かなきゃと思った。きっかけは最近「鼻歌で音源が作れる音楽制作ソフト」が登場したことだった。なんだそれ、さっぱりなにが言いたいのかわかんねーぞ、とお思いの方、ちょっとお付き合いください。
 モヤモヤしていたことというのは、
「なぜ、音楽の世界に新しいスタイルや方法論やシステムが出てきた時に多くの人は反発したり無視したり違和感を表明したりするのか」
ということについてである。
海外の話、しかも古い話になって申し訳ないが、ロックンロールが生まれた時に当時のポップス・ファンは嫌悪を示し、ボブ・ディランがエレキギターを持った時に当時のフォーク・ファンは反発を示し、シンセサイザーが出てきた時にロック・ファンの中に賛否両論が起き、ターンテーブルでトラックを作るヒップホップに対して「すぐに終わる安っぽい一過性のブーム」と馬鹿にし、パンクが出てきた時には「スリーコードの青臭い反逆ごっこ」と軽視した。その後もデジタルレコーディング、プロ・ツールス、ボーカロイド、なんでもかんでもとりあえずネガティヴな色眼鏡の洗礼をまず受ける。
 音楽の聴き方に関してもそうで、カセットテープが登場した時には「あんな音質で音楽を聴くなんて」と言い、ウォークマンが登場した時には「ながら聴き」は良くないと言われ、CDは「音楽をデジタル信号化したら大切なものが失われる」だの「ジャケットワークが蔑ろにされている」だの言いわれ、最近ではiPodやケータイで音楽を聴くことになんだかんだ言い続けている人たちが大勢いる。いまだに、そうした音楽にまつわるいろんなことがいろんなところで議論されている。
 僕はそれらを長年ずっと見てきた。
どうだっていいじゃん、むしろそういう新しいスタイルや方法論は面白いし便利だし画期的だし、いいじゃんいいじゃん、とぼんやり思いながら見てきた。でも、もうはっきりと言い切っていいと思う。そんな議論は、本当にどうだっていい。そんなことは音楽の本質とは全然関係ない。ご苦労さん。
ポップ・ミュージックはつねに新しい「今」を提示する。その「今」に可も不可もないのだ。政治や経済ではないのだから。音楽の世界ではすべての「今」は「可」である。あたりまえじゃん、そんなこと。そんなこともわからないでガタガタ言ってくる「自称音楽好き」の大人がいたら「うるせえ」って言ってやれ。
 「鼻歌で音源が作れる音楽制作ソフト」というのが登場した。自分で作ったメロディを鼻歌で歌ったら、それに合うコードを抽出して楽曲にしてくれるのだ。あとは細かい修正やオプションを加えたり、歌詞を作って歌を完成させれば楽曲として完成する。あっという間に自分のオリジナル楽曲が音源化される。使ったことはないから(やってみようかな?)、どの程度のことまでできるのかわからないが、音楽制作ソフトのあり方としては今のところ究極である。これを超えるのは、もう頭の中に浮かんだ音楽をそのまま音源にしてくれるとか、その時の気分を自動的に楽曲化してくれるとか、そういうものしかない。それだって、近いうちにできるかもしれない。そうするとまた「才能もない奴が誰でも音楽を作れてしまうことの是非」とかが議論されるのだろう。まったくくだらない。繰り返しになるが、ポップ・ミュージックはつねに新しい「今」を提示する。ポップ・ミュージックは過去の常識、過去の体験、過去に裏打ちされた特権、などを守り保証するためにあるのではない。あらゆるスタイルや方法論を「可」とするためにポップ・ミュージックは「今」を生きるすべての人に開かれている。すごくシンプルで、偉大なことなのにな。
山崎洋一郎の「総編集長日記」の最新記事
公式SNSアカウントをフォローする

人気記事

最新ブログ

フォローする