デヴィッド・ボウイの本当のラストメッセージはどこにあるのか

デヴィッド・ボウイの本当のラストメッセージはどこにあるのか
遺作となったアルバム『★』が「まるで遺書のようだ」と、「まさにボウイが意図して残してくれた最後のメッセージのようだ」と言われている。

僕も、ボウイの死を知ってから数日間はそう思って聴いたし、多くの人がこのアルバムに対して今もそういう向き合い方をしていると思う。
特にラスト曲の「アイ・キャント・ギヴ・エヴリシング・アウェイ(私はすべてを与えることができない)」というフレーズは、ボウイからの深い意味を込めたラストメッセージとして受け取られている。
やはりこのアルバムは、癌との闘病生活の中で作られた、非常に特別でシリアスな、まるでラストアルバムであることが意図され運命づけられた作品なのだと、そういう位置づけがなされている。
そうなのかもしれない。いや、事実そうなのだろう。


だが、ボウイを失った僕たちが今、語るべきことはそういうドラマなのだろうか。
そうしたドラマ性でこのアルバムを特別視することが、ボウイの本質をあらためて語るべき今、トータルの物語を歪めてしまうことを僕は恐れる。


ボウイがこの『★』のようなアルバムの作り方を「しなかった」ことはこれまで一度もないのである。
どのアルバムも1枚残らず全てが(ティン・マシーンとしての2枚のアルバムは例外だが)、「まるで遺書のような」アルバムであり「まるでボウイが意図して残してくれた最後のメッセージのような」アルバムなのである。
『ジギー・スターダスト』がもしボウイの遺作だったら、『アラジン・セイン』がもしも遺作だったら、『ロウ』だったとしたら、『ヒーローズ』だったら、『スケアリー・モンスターズ』だったら、『ザ・ネクスト・デイ』だったら……と仮定して、それに相応しくないものがあるだろうか。たった1枚もないのである。
まるで人類へ向けての最後のメッセージのような、まるで遺書のような、異常なまでの緊張感とシリアスさがどの作品の、どの歌詞にも音にも声にもヴィジュアルにも込められている。
ボウイはいつだって常にそういうアーティストだった。
だから僕らはボウイを聴き続けてきたのである。(後略)
山崎洋一郎

(制作中のロッキング・オン最新号『追悼デヴィッド・ボウイ』のまえがきより抜粋)




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