【コラム】SEKAI NO OWARIがなぜ凄いのか、について書きました(JAPAN今月号「激刊!山崎」より転載)

【コラム】SEKAI NO OWARIがなぜ凄いのか、について書きました(JAPAN今月号「激刊!山崎」より転載)

 セカオワの日産スタジアムのライブは、僕の長—————い音楽評論家/音楽雑誌編集者人生の中でも10本の指に入る、忘れ得ぬ強烈な体験だった。それについて書きたい。
 
まず、Saoriのピアノである。今回のライブでのSaoriのピアノのプレイはすさまじいものがあった。
もともとピアノの講師をするほどの腕前の持ち主だから今さら驚くまでもないのだが、今回のライブにおいては本当にすごかった。
セカオワの楽曲のポップな外装の内側に潜む緻密な音楽性をピアノの鍵盤上に浮かび上がらせ、それを正確なプレイでスタジアム全体に向けて叩きつけていた。
これまでのように、Saoriの見せ場だけでのアピールではなく、ライブ全般においてSaoriのピアノがセカオワの音楽の強靭さを表現し尽くしていた。
 
そして、新曲”ANTI-HERO”がNakajinの作曲であることからも明確な通り、Nakajinのマルチ・ポップ感覚がいかに今の世界水準のポップ感覚とシンクロしているかが、ステージでの彼の動き方を見ていてよりくっきりと伝わった。
彼のアレンジの構造やプレイの押し引きのやり方は、完全に「今の世界の新世代ポップ・バンド」のそれだ。
 
そしてFukaseは、ヴォーカリストとして、フロントマンとして、驚異的な成長とスケールアップを遂げていた。
台風直後の、まだ風の強い日産スタジアムに組まれた40メートルのセットの20メートルのミニステージ(マンションで言えば7階の高さ)で、響き渡る声量と正確なピッチで3曲を歌い、それ以外でも緻密にプログラムされた演出に従ってステージ・アクターとしての役割を演じながらすべての歌を余裕で歌い切る、その力量は実に驚くべきだった。
 
これまでのセカオワのライブにあった「ひ弱さ」みたいなものが、今回の日産スタジアムのライブには微塵もなくなっていた。
 
あ、DJ LOVEは、これまでどおりDJ LOVEだった(笑)。

 
つまり、メンバーそれぞれが超人のようだった。
 
 
もちろん、演出が斬新だったことも、ステージセットが破格のスケールだったことも、数多くのヒット曲がセットリストに加わっていたことも、新曲”ANTI-HERO”と”SOS”が音楽的に超進化を遂げていたことも、その他にもいくらでもこの日のライブの凄さについて書けることはいくらでもある。
でも、僕がこの日のライブを観て「セカオワ、凄い!」と思ったもっとも強烈な理由は、メンバー自身がそれぞれ超人化している、ということだった。
だからセカオワは人気者なんじゃん、当然じゃん、と思った。
ポップ・ミュージック、エンタテインメントの世界はそういうものじゃん、当たり前じゃん、世界中のポップ・ミュージックの主役たちはその当たり前の掟を背負いながら新しい時代を切り開き、世界を変えようとしているんじゃん。

 

日本のポップ・ミュージックの世界だけが、その当たり前にいまだ気づいていない。
これまでの世界には通用していた共感者だけの小さな世界や、とっくに無効になっているアーティスト概念や、古くなったロック美学やら、いろんなものにしがみついて、今の世界のあり方のリアルから目を逸らして誤魔化している。

 

今のポップの世界を動かし、人々の眼と耳と心を集めて繋ぐのは、小さな子どもが観ても、若い世代が観ても、成熟した世代が観ても、誰が観ても「凄い」と思える、ある種の「超人性」である。

 誰よりも美人であるとかイケメンであるとか、高度で複雑な音楽性であるとか、歌が誰よりも上手いとか、そういう特殊なことではない。
誰もができるし、誰にもチャンスがあるし、誰にも可能性がある、というポップの原則から出発して、ポップの掟の中で闘い続けることで、ポップの力を身に付けて、超人化していく。
そしてその輝きがどんな国のどんな世代の人をも魅了する。
それが2010年代以降のポップ・ミュージックの地平だ。

セカオワはそこに立っている。
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