あなたの役に立つ(かもしれない)「現実逃避」のやり方(JAPAN今月号『激刊!山崎』より)

新年になりました。2015年です。
トゥーサウザンド・フィフティーン。あるいはトウェンティー・フィフティーン。
受験生のみなさん、どっちも正しい英語ですよ。
 
受験生といえば、勉強ですよね。勉強は嫌ですよね。
勉強してるとついつい他のことがしたくなる。
それを人は「現実逃避」って言いますよね。
 
この場合、「現実逃避」はいけないもの、ということが前提になっていますが、
それってどうなんでしょうね? 
現実逃避はいけないことなんでしょうか。
それはちょっと違うと思うんです。

「現実逃避はいけないこと」、という考えを認めた上で現実逃避するから、いけないことになってしまうんです。
「豚肉を食べることはいけないこと」という宗教を信じている国の国民が豚肉を食べたら、そりゃあ「いけないことをした」となるのは当たり前です。
でもそれは、その宗教を信じていない国の人達にとっては少しも「いけないこと」ではないわけです。
 
例えば、仮に「現実逃避は素晴らしいことだ」という考えがあるとします。
目の前の現実に囚われず、常に自分独自の時間の楽しみ方を見い出して人生を充実させる生き方こそ理想的な人間の生き方だ、
という考えがあるとします。
あっても別に不思議ではないですよね?
 
ではなぜ多くの人はそう考えないのでしょうか。
 
それは、難しいからです。

ですよね。
どう考えたって難しい。受験に失敗して仕事をクビになって友達からも見放される−−−
そんな悲惨な人生を思い浮かべてしまうでしょう。
でも、それもまた少し違うんです。

もちろんそうなってしまう人もいるでしょう。
でもそうならない人もいる。
その違いは、「現実」をどう捉えているか、によるのだと思います。
 
現実を生きることも「現実逃避」の一つだ、ということがわかっているかわかっていないかの違いです。

「いや、俺はあくまでも現実と向き合って生きている」、と主張する人もいるでしょう。
でも、正確に言うならば、その人はその人が選んだ「現実」に現実逃避しているとも言えるわけです。
 
そう考えると少しは難しくなくなります。
息苦しさは減ります。

眠るという現実逃避、食べるという現実逃避、受験勉強という現実逃避、ライブに行くという現実逃避、ゲームをやるという現実逃避、仕事という現実逃避、
どれを選んでも、そこには良いも悪いもない。
選びたいものを選べばいいんです。自分の人生なんだから。

なんだ、それじゃあ結局やっぱり勉強しなきゃなと思って勉強するし、途中でゲームやりたいなと思ってやっちゃうだろうし、あんまり変わんないじゃん、と思われるでしょう。
その通りです。
やることはあんまり変わらないかもしれません。
でも「逃避」じゃなくて「選んでいる」という感覚で行動することは実はすごく大きなことです。
何をしても実感が持てる、前向きになれる、そして余計な罪悪感を排除できる。
それと、もっとも重要なのは、何かを決断しなくてはならない時に判断を間違えない、ということです。

自分が選ぶという感覚で決断したことは、少なくとも自分にとっては間違いではない。
それがたとえ現実のいろいろな事情によってやむを得ないような決断であったとしても、
それに押し切られたり流されたりするのではなく「自ら進んでその決断を選んだ」という感覚を持てるか持てないかは大きく違います。

極端な話、彼女にふられた、彼氏にふられたといった「自分ではどうしようもない」ことですら、
「僕は(私は)大切な人を失った日々をこれから歩いて行くんだ」という自分の選択と意志の物語として捉えることで乗り越えていける。
もしも「現実」を絶対的なものとして捉えてしまったら「もう彼女(彼)はいない。どうすればいいんだ」というところから抜け出せなくなってしまう。
そういうことです。
 

「ちゃんと自分で選ぶ」ということをサボると、現実というのはどんどん巨大なモンスターになっていくので、
そのへん、みなさんお気をつけて。
2015年も頑張っていきましょう。

(ロッキング・オンJAPAN3月号『激刊!山崎』より)
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