ボブ・ディランはボブ・ディランを生きる。オーチャード・ホールに5日間通って思ったこと。

ボブ・ディランはボブ・ディランを生きる。オーチャード・ホールに5日間通って思ったこと。
ボブ・ディラン、東京公演を5日間観ることが出来た。幸せな5日間だった。その幸せの中で思ったことを書く。
1988年にネバー・エンディング・ツアーを始めた時、ディランはボブ・ディランとして生きることを決めたような気がする。つまり表現者ボブ・ディラン以外の人生を二義的なものとしたように僕は思えた。
何のことを言っているのか分からないと思うが、少しディランのアーティストとしとの在り方の特異性を考えれば、僕の言いたいことを分かってもらえるかもしれない。
ツアー・タイトルが変わっても、ファンが彼のツアーをネバーエンディング・ツアーと呼ぶのは、簡単に言えば、年がら年中ツアーをやっているからだ。
ある程度の成功を手にすると、過酷なツアーは数年に1回とかが普通になる。10年に1回とかも珍しくない。
ディランのような超大物で高齢となれば、こうした頻度でライヴをやり続けことはあり得ない。
では何故、ディランはライヴを続けるのか?それはディランがディランという表現者としての人生だけを生きることにしたからだ。
まるで漁師が毎日、船で漁に出るように、農民が毎日畑に出るように、ディランはステージに立つのだ。
だからディランのステージはいつもオンタイムに始まり、ほぼ同じ時間に終わる。
マドンナのように2時間押したりすることはない。マドンナは本番前、とても長い精神集中の時間を取るらしい。マドンナというスターになる準備が必要なのだと思う。ディランはいつもディランなので精神集中は必要ない。むしろディランでいつづける為に同じ時間にステージに立つのだ。まさに農民や漁師が仕事のペースを大切にするように、ディランもステージのペースを大切に守るのだ。
アルバムもこうしたアーティストとしては、あり得ないペースでリリースされる。オリジナルであったりカバーであったり形はいろいろだが、最近も2006年から7枚のアルバムがリリースされている。
きっとこれも作品制作を、日々の活動の集積として発表していく彼の自然なペースなのだろう。楽曲製作やアルバム製作も日常にしてしまっているのだと思う。そして何より素晴らしいのは、こうして展開されるライヴやアルバムが、圧倒的な質と革新性を持ち続けていることだ。
アルバム「テンペスト」のタイトル・ナンバーの歌詞が45番まであって、この人のラジカリズムは死ぬまでつづくのだと感動した記憶もまだ新しい。ライヴは最近のアルバムを中心のセットリストになる。これも彼のようなキャリアのアーティストとしては珍しいことだ。
僕はこうしたレジェンド・アーティストは観客が聞きたい曲を歌うべきだという考えを持っているが、ディランをその考えに当てはめるのはちょっと難しい。
実際、新しい曲ばかりのステージをほとんどの客はとても楽しんだはずだ。まるでアルバム2枚の新人アーティストのステージと向き合うように、観客は最新型のディランのステージと向き合った。
ライヴ会場は渋谷のオーチャード・ホールだった。ほぼ決まった6時半くらいに会社を出て僕はライヴに5日間、通った。開演少し前に会場に着き、待っているといつもほぼ定時に客電が落ちディランが登場する。その日常と非日常が一体となった時間は、余りに心地よく夢のようだった。
写真は最新アルバム。前作に続いてのカバー・アルバムだ。このアルバムを聞いていると、あのライヴの空気感が鮮烈に蘇る。歌の表情、ギターの音色が、まさに今のディランなのだ。
常に最新型であり続けるディランは素晴らしい。そしてそのディランの最新型の表現と向かい合い、時代を共有出来る僕たちは幸せだ。
明日のワールド・ロック・ナウで紹介したい。
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