日本上陸のデヴィッド・ボウイ大回顧展『DAVID BOWIE is』を見た!その全貌が明らかに

日本上陸のデヴィッド・ボウイ大回顧展『DAVID BOWIE is』を見た!その全貌が明らかに

デヴィッド・ボウイの大回顧展、『DAVID BOWIE is』がついに日本に上陸!ボウイの70歳の誕生日である1月8日からスタートする本開催を前に、ここでは内覧会に参加してのレポートを記しておきたいと思う。

『DAVID BOWIE is』を体験する上でまず何より大事なのは時間。とにかく破格のボリュームと密度なので、普通に見て回っても最低2時間、混雑時には3時間かけても展示物の網羅は難しいんじゃないかと感じた。参加当日はなるべく前後の予定を空けて余裕を持った体勢で臨むべき。そして一通り見終わった後には「もう一回見たい!」となること請け合いなので、リピート前提でなるべく早めの日程で初鑑賞を終えることをお勧めしたい。

会場の入り口では音声ガイドを一人一台貸してもらえる。そしてこの音声ガイドが今回の展覧会においては超重要! 美術館の音声ガイドと言えば展示物の前に行って該当するボタンを押すと作品解説のナレーションが流れる、というのが一般的だが、『DAVID BOWIE is』のガイドはそんな普通のものじゃない。会場を勝手にウロウロしていても、当該エリアに足を踏み入れた瞬間に自動的にガイドが作動、目の前の映像やオブジェ、文章とリンクしたボウイの声や歌がすっと耳に入ってくる。混雑の真っただ中にあっても、独りでボウイに導かれているような個人的体験を味わうことができるのだ。

『DAVID BOWIE is』の展示を順に追っていくと、ふたつの流れで構成されていることに気づくだろう。ひとつはもちろん生い立ちから紐解いていく時系列、そしてもうひとつがデヴィッド・ボウイをデヴィッド・ボウイたらしめたいくつもの要素――音楽、映像、歌詞、文学、ファッション、舞台、美術といったものがそれぞれのカテゴリーにまとめられて配置されている。時間を横軸、これらのカテゴリーを縦軸として3次元で展開されていくボウイのペルソナの冒険の軌跡はまさに圧巻の一言。

『DAVID BOWIE is』にはおよそ考えうる最高最多のボウイの痕跡が集められている。さすが世界有数の美術工芸コレクションで知られるヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)が監修制作しただけあって、今回集められたボウイのコスチュームはそれだけで別に服飾史の企画展が開催できそうなとんでもないボリュームだし、他にも直筆の歌詞やアイディア・ノート、ビデオやアートワークのヒントとしてボウイが自ら描いたカラフルなスケッチといったお宝の数々がところ狭しと飾られ、あなたを待ち受けている。

展示はボウイの直接の作品だけには留まらない。クラウス・ノミからアンディ・ウォーホルまで、スタンリー・キューブリックからマレーネ・デートリッヒまで、ボウイに影響を与えた多種多様なアーティストたちも随所でフィーチャーされ、デヴィッド・ボウイという稀代の表現者の成り立ちを伝えている。「自分ではない何か」を表現し続けることを自身のアートとしたボウイだからこそ、こういう「内」と「外」の壁が決壊した複合展示に意味があるわけで、山本寛斎や坂本龍一、北野武ら日本のアーティストたちももちろんそこには含まれている。

詳しいネタバレは避けるが、『DAVID BOWIE is』の全展示の中でも特に見応えがあるのはやっぱりカラフルで、斬新で、挑発的で、そして何よりも強烈に美しいボウイのコスチュームの数々だ。エントランスからわりとすぐの段階で山本寛斎のあまりにも有名な「トーキョーポップ」ジャンプスーツがお出迎えしてくれるのだが、それを目の当たりにしての感動と同時に唖然するのがそのウエストの細さ! 身頃の狭さ! その後のどの時代のどのコスチュームも恐ろしく細身だ。等身大のボウイのフォルムを知ることで、逆にボウイが世間一般で等身大とされるものとはかけ離れた唯一無二の存在であったことを再認識する格好だ。

ボウイの直筆も、なかなか味わい深い。筆跡が少なくとも3、4パターンあって、ものによって全く異なる印象を与えるのだ。可愛らしく丸まった文字が並んだ歌詞もあれば、雑に殴り書きされた歌詞もある。そのまま額に入れてアートになりそうな、飾り文字でデザインされた書簡も残されている。彼は音楽やファッションだけじゃなく、「字」そのものにおいても複数のペルソナがあったのだと気づかされたのだ。

とにかく見所満載なのだが、『DAVID BOWIE is』の凄さはそのコレクションの物量だけによるものではない。今回の大回顧展が画期的なのは、ボウイの遺産をただフラットに並べて見せるだけではなく、今、この場でもう一度デヴィッド・ボウイの「作品」が作られようとしている点だ。ボウイが遺した膨大な作品の数々をピースとして、そのピースを組み合わせてデヴィッド・ボウイを再構築していく、という新たなアートがここでは繰り広げられているのだ。『DAVID BOWIE is』とは、ボウイの現在進行形にして最後の作品なのだと思う。そういう意味でも本展のキュレーションは非常に特殊で、随所でキュレーションの域を逸脱したクリエイションと呼ぶべき展示が行われていたりもするのだが、それもまたテーマがデヴィッド・ボウイだからこそ可能だった自由ということなのだろう。

『DAVID BOWIE is』の展示を巡っていると、そこかしこにボウイの存在を強烈に感じることができる。それは彼の遺品、遺産が目の前にあるという意味ではない。ボウイがこの現在進行形のアートの中で「生きている」と感じる、息づかいのリアルな存在感なのだ。『DAVID BOWIE is』は回顧ではあるけどけっして懐古ではない。この展覧会を体験して芽生えたボウイが生きているという感覚、ボウイのアートの普遍性への確信は、きっとこの後もずっと続いていく私たちの宝物になるはずだ。(粉川しの)
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