なぜシューゲイザーはみな同じ音を出すのか
2009.05.17 18:31
MY BLOODY VALENTINEが創出した、
後に「シューゲイザー」と呼ばれることになる文体は、
80年代から90年代へと時代が移り変わるその過渡期に突如発明され、
そして、その短い時期に多くのフォロワーを生んだ。
以降、ギターを主体としたロックはグランジからオルタナティヴ、
あるいは復古主義とめまぐるしく変遷を遂げてきたが、
シューゲイザーと称されるそれは、
あたかも地下水脈を流れるせせらぎのように、
むしろ日の目を見ることを避けるかのような控えめさで、
オーバーグラウンドで交わされる言葉ではなくなった。
しかし、今、CD店を覗いてみると、
そこにはしっかりと「シューゲイザー」と自らを規定した
新しいバンドたちが、場所を占めているのである。
一昨年についにリスタートを切った創造主MY BLOODY VALENTINEの、
時を超えた勇姿もあってか、
ここにきて、その文体は、新しいロックの言語として見直され、
積極的に話されようとしている。
しかし、である。
ロックの常として、さまざまな文体はいつも刷新されてきた。
というか、刷新と進化がロックそのものだといっていい、
つまりは、変化はロックにとってアプリオリな条件なのである。
しかし、なぜか「シューゲイザー」たちは、
その文体をほとんど変えようとしない。
その音は、1991年の昔から2009年の今に至るまで、
ほぼその設計を変えることがないのだ。
これはいったいなぜなのか?
どんなに完成された音楽文体においても、
意識的なミュージシャンであれば、
そこに何がしかのイントネーションやアクセントを欲するだろうし、
そうでなければ、そもそも「いま/ここ」を絶対の基本とする
ロックの表現として成立しないのはずである。
けれど、彼ら「シューゲイザー」たちは、断固としてそうはしないのだ。
なぜか。
それは、その文体の「構造」そのものが、
「シューゲイザー」が表現したいことのすべてだからである。
全編を覆うノイズと、その向こうでかすかに漏れ聴こえてくるメロディ。
それは、まさしく、世界との間に建てられた壁と、
その向こうで守られる自分という構図なのである。
「シューゲイザー」にとって、世界と自分とはそういうものであり、
それ以外はないのだ。
ロックがある種のイノセンスを擁護するものだとしたら、
彼ら「シューゲイザー」たちは、その権利の主張を
闘いではなく保護と隔離に求める。
無抵抗主義という抵抗主義があの音なのだ。
そして、その構図の絶対的な固定は、必然として彼らの究極の夢となっていくだろう。
「シューゲイザー」は「シューゲイザー」であることが、
すべてなのである。
さて、そんな「シューゲイザー」の最新の(?)バンドとして登場したのが、
このTHE PAIN OF BEING PURE AT HEARTである。
なにしろ、BEING PURE AT HEARTであることのPAIN、なのだ。
そういう意味では、「シューゲイザー」というものが何であるのか、
そのことを自ら明確に対象化した初めての「シューゲイザー」と呼べるだろう。
その批評性は新しいと思う。
その意味で、優れた2009年のロック・バンドである。
MY BLOODY VALENTINEが創出した、後に「シューゲイザー」と呼ばれることになる文体は、
80年代から90年代へと時代が移り変わるその過渡期に突如発明され、
そして、その短い時期に多くのフォロワーを生んだ。
以降、ギターを主体としたロックはグランジからオルタナティヴ、
あるいは復古主義とめまぐるしく変遷を遂げてきたが、
シューゲイザーと称されるそれは、
あたかも地下水脈を流れるせせらぎのように、
むしろ日の目を見ることを避けるかのような控えめさで、
オーバーグラウンドで交わされる言葉ではなくなった。
しかし、今、CD店を覗いてみると、
そこにはしっかりと「シューゲイザー」と自らを規定した
新しいバンドたちが、場所を占めているのである。
一昨年についにリスタートを切った創造主MY BLOODY VALENTINEの、
時を超えた勇姿もあってか、
ここにきて、その文体は、新しいロックの言語として見直され、
積極的に話されようとしている。
しかし、である。
ロックの常として、さまざまな文体はいつも刷新されてきた。
というか、刷新と進化がロックそのものだといっていい、
つまりは、変化はロックにとってアプリオリな条件なのである。
しかし、なぜか「シューゲイザー」たちは、
その文体をほとんど変えようとしない。
その音は、1991年の昔から2009年の今に至るまで、
ほぼその設計を変えることがないのだ。
これはいったいなぜなのか?
どんなに完成された音楽文体においても、
意識的なミュージシャンであれば、
そこに何がしかのイントネーションやアクセントを欲するだろうし、
そうでなければ、そもそも「いま/ここ」を絶対の基本とする
ロックの表現として成立しないのはずである。
けれど、彼ら「シューゲイザー」たちは、断固としてそうはしないのだ。
なぜか。
それは、その文体の「構造」そのものが、
「シューゲイザー」が表現したいことのすべてだからである。
全編を覆うノイズと、その向こうでかすかに漏れ聴こえてくるメロディ。
それは、まさしく、世界との間に建てられた壁と、
その向こうで守られる自分という構図なのである。
「シューゲイザー」にとって、世界と自分とはそういうものであり、
それ以外はないのだ。
ロックがある種のイノセンスを擁護するものだとしたら、
彼ら「シューゲイザー」たちは、その権利の主張を
闘いではなく保護と隔離に求める。
無抵抗主義という抵抗主義があの音なのだ。
そして、その構図の絶対的な固定は、必然として彼らの究極の夢となっていくだろう。
「シューゲイザー」は「シューゲイザー」であることが、
すべてなのである。
さて、そんな「シューゲイザー」の最新の(?)バンドとして登場したのが、
このTHE PAIN OF BEING PURE AT HEARTである。
なにしろ、BEING PURE AT HEARTであることのPAIN、なのだ。
そういう意味では、「シューゲイザー」というものが何であるのか、
そのことを自ら明確に対象化した初めての「シューゲイザー」と呼べるだろう。
その批評性は新しいと思う。
その意味で、優れた2009年のロック・バンドである。
TVはいつまで政治家に語らせないつもりか
2009.05.17 08:43
マンUとバルサとインテルがそれぞれ自国リーグの優勝を決めた週末(?)、
日本の政界でも「次期リーダー」の可能性の高い野党代表が決まったということで、
早速今朝から各テレビ局の報道番組が新代表を出演させ、
その言葉を聞こうとしている。
しているのだけど、本当にどうにかならないだろうか。
「消費税は上げるんですか?」
「いつ上げるんですか?」
「やっぱり上げるんですよね?」
例によって功名心の塊のようなジャーナリストが詰め寄っている。
国民は、消費税が上がることなんて、とっくに織り込み済みである。
というか、上がるのか上がらないのかそれが明日なのか3年後なのかといったことは、
どうでもいいでのある。
聞きたいのは、その政策判断へのプロセスと理由、背景への説明と認識なのだ。
しかし、まるで国民の声の代弁者でもあるかのように振舞うキャスターは、
それを政治家に語らせない。
久米であり、田原でありといった、
政治家を追い込んで本音の表情をさせた(?)タイプのそうしたキャスターが、
テレビ的にもそれを観る側にとってもよいという誤解が支配的なまま、
今日に至っている。
しかし、たとえばオバマが本音の表情を見せたとして、
それがいったい彼の仕事のどれだけの評価につながるだろうか。
政治家に本音などいらない。
本音など、そのわかりやすい行動にあからさまじゃないか。
むしろ、見たいのは、彼らの構築された建前だ。
だって、それが仕事じゃないか。
日本の政界でも「次期リーダー」の可能性の高い野党代表が決まったということで、
早速今朝から各テレビ局の報道番組が新代表を出演させ、
その言葉を聞こうとしている。
しているのだけど、本当にどうにかならないだろうか。
「消費税は上げるんですか?」
「いつ上げるんですか?」
「やっぱり上げるんですよね?」
例によって功名心の塊のようなジャーナリストが詰め寄っている。
国民は、消費税が上がることなんて、とっくに織り込み済みである。
というか、上がるのか上がらないのかそれが明日なのか3年後なのかといったことは、
どうでもいいでのある。
聞きたいのは、その政策判断へのプロセスと理由、背景への説明と認識なのだ。
しかし、まるで国民の声の代弁者でもあるかのように振舞うキャスターは、
それを政治家に語らせない。
久米であり、田原でありといった、
政治家を追い込んで本音の表情をさせた(?)タイプのそうしたキャスターが、
テレビ的にもそれを観る側にとってもよいという誤解が支配的なまま、
今日に至っている。
しかし、たとえばオバマが本音の表情を見せたとして、
それがいったい彼の仕事のどれだけの評価につながるだろうか。
政治家に本音などいらない。
本音など、そのわかりやすい行動にあからさまじゃないか。
むしろ、見たいのは、彼らの構築された建前だ。
だって、それが仕事じゃないか。





















