I'M NOT THERE
2009.05.09 22:25
ボブ・ディランを扱ったトッド・ヘインズの映画「I'M NOT THERE」を鑑賞中。
よく知られているようにこの作品は、複数の俳優がディランを演じ、
しかもその描き方はドキュメンタリーの手法をとっているという、
一風変わったものになっている。
われわれが知るディランは、ということはつまり、
メディアに登場するディランは、いつも、そこにどう自分が映っているかを
熟知しているように見える。
表情、身体の曲げ方、椅子の座り方、語る言葉、
あるいは、語らないことなどなど、それらはいつも、
周到にコントロールされている。
つまり、ディランはいつも、ディランを演じているように見えるのである。
最新作が全米全英でともに1位と、その神格化はいまなお少しの陰りもない
ディランは、
なぜそのようにアンタッチャブルなのだろうか?
まだポップ・カルチャーが芽生える前から、
ひとりアメリカを彷徨って、原風景を封印した名もなき歌を拾い集めたからだろうか。
そして、それらを伝え、変わりゆく時代にも寄り添いながら、そのときどきをとらえた歌を紡いだからだろうか。
そのとおりなのだと思う。
ディランとは、いわば歴史なきアメリカの歴史を伝え歌うことのできる、
唯一の存在なのである。
そしていうまでもなく、フォークとは、さまざまな者たちが生きた、痕跡の物語である。
ディランは、それを生きたのだ(だから彼はいつも演じていて、そこには、いない、のだ)。
アメリカ最大のフォーク・ソング、それがディランということなのである。
ボブ・ディランを扱ったトッド・ヘインズの映画「I'M NOT THERE」を鑑賞中。よく知られているようにこの作品は、複数の俳優がディランを演じ、
しかもその描き方はドキュメンタリーの手法をとっているという、
一風変わったものになっている。
われわれが知るディランは、ということはつまり、
メディアに登場するディランは、いつも、そこにどう自分が映っているかを
熟知しているように見える。
表情、身体の曲げ方、椅子の座り方、語る言葉、
あるいは、語らないことなどなど、それらはいつも、
周到にコントロールされている。
つまり、ディランはいつも、ディランを演じているように見えるのである。
最新作が全米全英でともに1位と、その神格化はいまなお少しの陰りもない
ディランは、
なぜそのようにアンタッチャブルなのだろうか?
まだポップ・カルチャーが芽生える前から、
ひとりアメリカを彷徨って、原風景を封印した名もなき歌を拾い集めたからだろうか。
そして、それらを伝え、変わりゆく時代にも寄り添いながら、そのときどきをとらえた歌を紡いだからだろうか。
そのとおりなのだと思う。
ディランとは、いわば歴史なきアメリカの歴史を伝え歌うことのできる、
唯一の存在なのである。
そしていうまでもなく、フォークとは、さまざまな者たちが生きた、痕跡の物語である。
ディランは、それを生きたのだ(だから彼はいつも演じていて、そこには、いない、のだ)。
アメリカ最大のフォーク・ソング、それがディランということなのである。
DIRTY PROJECTORS
2009.05.09 15:31
NYの中村さんは無事BJORKとDIRTY PROJECTORSのイベントに
潜入できただろうか・・・?
なにしろキャパ300人とあった。
潜入できたたらできたで、
相当な至近距離でBJORKと、
そしてDIRTY PROJECTORSのDAVID LONGSTRETHとあのフィーメイル・コ−ラス隊の、
おそらくはロック史上においても最高に自由かつストロングな歌声の、
もろ直撃なのだろうからして、
いずれにしても心配である。
2009年は、どうやらNYの3グループ、
ANIMAL COLLECTIVEとGRIZZLY BEAR、
そしてこのDIRTY PROJECTORSの年になりそうである。
そして、それはどういうことかというと、
単純にアバンギャルドでトライバルでインディペンデントな志向性が時代をとらえた、
ということ以上に、
「声」だった、ということなのだと思う。
この3グループを貫いていたのは、
「声」をいかに現代の音楽の中で復権、あるいは新設させるかだった。
それは、自在かつ奇妙なメロディであり、
可憐な囁きであり、
ときにノイジーでときに目も眩むようなコーラスだった。
複雑なバックトラックは、それをどう生かすかに服していた。
だから、これらの音は新しく、いまを告げているのである。
それは、もちろん、FLEET FOXESにも言える。
そして「声」とはつまり、「ヒューマン」ということである。
いま日本では、特別な「声」を持ったひとのお別れ会が行われている。
NYの中村さんは無事BJORKとDIRTY PROJECTORSのイベントに潜入できただろうか・・・?
なにしろキャパ300人とあった。
潜入できたたらできたで、
相当な至近距離でBJORKと、
そしてDIRTY PROJECTORSのDAVID LONGSTRETHとあのフィーメイル・コ−ラス隊の、
おそらくはロック史上においても最高に自由かつストロングな歌声の、
もろ直撃なのだろうからして、
いずれにしても心配である。
2009年は、どうやらNYの3グループ、
ANIMAL COLLECTIVEとGRIZZLY BEAR、
そしてこのDIRTY PROJECTORSの年になりそうである。
そして、それはどういうことかというと、
単純にアバンギャルドでトライバルでインディペンデントな志向性が時代をとらえた、
ということ以上に、
「声」だった、ということなのだと思う。
この3グループを貫いていたのは、
「声」をいかに現代の音楽の中で復権、あるいは新設させるかだった。
それは、自在かつ奇妙なメロディであり、
可憐な囁きであり、
ときにノイジーでときに目も眩むようなコーラスだった。
複雑なバックトラックは、それをどう生かすかに服していた。
だから、これらの音は新しく、いまを告げているのである。
それは、もちろん、FLEET FOXESにも言える。
そして「声」とはつまり、「ヒューマン」ということである。
いま日本では、特別な「声」を持ったひとのお別れ会が行われている。
WILCOのニュー・アルバムが
2009.05.09 12:04
こんなジャケットになっている。
まったく自分でもどうしてこういうことを口走るのか
説明できませんが、
すばらしい。
こんなジャケットになっている。まったく自分でもどうしてこういうことを口走るのか
説明できませんが、
すばらしい。





















