映画『ホットロード』を観た。たまには映画の話を

映画『ホットロード』を観た。たまには映画の話を

今日は映画『ホットロード』を試写会で観た。
僕は去年までCUT編集部にいたのでその頃は日常的に映画を観ていたけれど、今は映画をゆっくり観る機会はほとんどない。
だからというわけでもないが、とても貴重な時間として、この映画を観させてもらった。

とてもいい映画だった。
紡木たくの原作にも、尾崎豊が歌う主題歌にも、主演の能年玲奈にもそれぞれに思い入れがあって、観る前はそのどれにもっとも感情移入するんだろうと自分で予想するようなところもあった。
実際、原作に忠実な様々なラインも、久しぶりに聴いても心が揺れる尾崎の歌声も、能年の輝きと確かな成長の跡も無論素晴らしかった。
だが、僕が何より贅沢に感じ、見逃すまい、聞き逃すまいと、いつの間にかぐっと集中していたのは、全編に散りばめられた「音」と「間」だった。
江ノ島の風景と一体になって聞こえてくる波の音(実際にはどれくらい拾われていたのか。しかし、ものすごく「聞こえて」いた)、和希たちの静かな心の声、バイクのタイヤがアスファルトを踏み締める摩擦音、すれ違いと行き違い、素直になれない若いやり取りが生む哀しい間。
そのすべてがとても饒舌だった。
それは、演出、演技と呼ぶべきなのかもしれないが、それよりも音と間ーーつまり撮影現場の空気がこの演出と演技を呼んだと言う方がこの映画が目指したものを的確に表現できるような気がする。

知っている人は多いと思うが、原作にはセリフがとても少ない。
極端に少ないと言ってもいいかもしれない。
それもやはり、映画が目指したものの中に大きなヒントがある。
つまり、セリフの寡多というのはあくまでより大きな思想や思いーー根幹となる物語や人物たちの息遣いが求めるものであり、作家が作風としてインプットするものでは、きっとない。
『ホットロード』で言うならそれは時代の空気、湘南の日差し、夜の静けさ、寄せては返す波の間、あるいは春山や和希といった登場人物たちのリアルな言動が紡木たくに求めた必然であり、その「場」と「時間」と「空気」のドキュメントこそが『ホットロード』だったのだと、あらためて教えられる思いだった。
だからその意味で映画『ホットロード』は原作に忠実なーーというより、原作に誠実な映画なのだとも思った。

そんなわけで、2時間がとても大切な時間として残る素晴らしい映画だった。

うーむ、たまに映画について書くとなんだか長くなってしまっていけない。

ちなみに今日発売のCUTを読めばもっとたくさんのことがわかります。
http://sp.ro69.jp/blog/cut/104013
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